この書状は、関ヶ原合戦の2日後に作成された、非常に生々しいものである。詳しい情報をもたらしたのは、現地から派遣された飛脚の書状だった。その情報をもとにして、書状が書かれたのだ。
この書状には、九月十四日に家康は赤坂(岐阜県大垣市)に到着すると、翌十五日の巳の刻(午前10時頃)には関ヶ原に着陣し、そのまま一戦に及んだと書かれている。
つまり、これまでの通説によると、巳の刻(午前10時頃)と辰の刻(午前8時頃)の2説があったが、巳の刻が正しいと考えてよいだろう。 ところで、合戦ではどのような形で進んだのだろうか。
一般論でいえば、鉄砲や弓などの飛び道具を使うのがセオリーだった。しかし、慶長六年~同十九年の間に成立したとされる生駒利豊書状(「生駒家文書」)によって、関ヶ原合戦の戦いの様子をつぶさにうかがうことができる。利豊は、東軍に属して戦った。以下、その概要を示しておこう。
福島正則の部隊と宇喜多秀家の部隊の戦いは、鉄砲の打ち合いによって開始された。両軍の距離は、五十~六十間(90~108m)だったという。やがて、宇喜多部隊の半分くらいが引き揚げたので、利豊は馬に乗って、敵陣へと攻め込んでいった。
そこで、利豊は素肌者(甲冑を付けていない武将)が刀で斬りかかってきたので、槍で応戦して突き殺した。一方、利豊の配下の小坂助六は、敵に槍で突き落とされ、敵味方入り乱れての白兵戦になったのだ。
戦いの手順としては、鉄砲の打ち合いから始まり、両軍が接近すると、槍や刀を用いた白兵戦になった。従来説では、鉄砲や弓を用いた遠戦主義が正しいとされてきたが、それはあくまで開戦時のことだった。両軍が近づけば、白兵戦になるのは避けられなかったのだ。