関ヶ原合戦当日の戦況については、定説とされていることが実は事実ではなかった、という事例が少なからずある。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.16』の特集「関ヶ原合戦ドキュメント」から、ここでは合戦の流れを時系列で追いながら、謎をひも解く。
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関ヶ原合戦の「謎」
1.なぜ関ヶ原が、決戦の地となったのか?
2.井伊直政と松平忠吉の先陣は本当に「抜け駆け」だったのか?
3.戦いの火蓋は何時に切られたか?
4.なぜ銃撃戦ではなく、槍による白兵戦が展開されたのか?
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慶長五年(1600)九月十五日、東西両軍は各地を転戦しつつ、関ヶ原で雌雄を決することになった。関ヶ原が決戦の地に選ばれたのは、決して偶然ではなかった。
関ヶ原は、現在の岐阜県不破郡関ケ原町に所在する。関ヶ原の「関」とは、関所のことを意味し、それは673年に天武天皇の命により設置された「不破関」のことである。その前年の壬申の乱は、関ヶ原で勃発した戦いである。
不破関は、鈴鹿関、愛発関とともに三関と称された。設置された理由は、当時の都・飛鳥浄御原宮(奈良県明日香村)を守るためだった。そして、東国と畿内の境を結ぶ関所として、古くから重要視されていた。
不破関は、現在の不破郡関ケ原町松尾に所在した。古くは中山道・北国街道・伊勢街道の分岐点にもあたり、宿駅が置かれていた。関所は山、峠、河川など境界を示す地点に設置され、一般的に国境付近に作られる。関ヶ原は地理的にいえば、伊吹・鈴鹿両山地に挟まれた小盆地で、岐阜県の南西端に位置していた。
不破関は気候が厳しい地であり、天気が非常に不安定な地域だった。風も強く、積雪量も非常に多かった。前近代において、人々が不破関を越えて近江に入るのには、相当な苦労が伴ったといわれている。
関ヶ原合戦の前哨戦で、家康が率いる東軍は、慶長五年八月に西軍の岐阜城を落とした。有利になった東軍は、そのまま西へ向かい、京都、大坂へと進軍する。西軍が強い危機感を抱いたのは言うまでもない。
また、三成の居城・佐山城(滋賀県彦根市)は、近江と美濃の国境付近に所在した。ここを突破されると、西軍の敗北は必至だった。当初、三成は大垣城(岐阜県大垣市)に陣を置いていたが、籠城の不利を悟り、あえて関ヶ原の地を選んだのは、東軍が近江へ侵攻することを食い止めるためだった。