哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
* * *
ロシアのウクライナ侵略についていろいろな人から意見を求められる。門外漢だから語るべき知見は持ち合わせていない。しかし、近しい人に訊(き)かれたら何か言わなければならない。
とりあえずウクライナ映画(およびウクライナを舞台にした映画)を6本観(み)た。ある国の人々が「自分たちを何ものだと思っているか」を知るためには彼らが繰り返し語る原型的説話に当たるのが捷径(ちかみち)であるというのは私の経験的確信である。
ランダムに選んだ6本のうち3本が「ロシア(ソ連)との戦争」の映画、2本がスターリン時代のウクライナ飢饉(ききん)とカニバリズムのトラウマを描いた映画、1本がソ連崩壊後のウクライナの道義的堕落を伏線にした映画だった。戦争映画はどれも「ロシア(ソ連)が侵略してきたので、市民が銃を執って祖国を英雄的に防衛する」話だった。
これらの映画がどこまで歴史的事実を正確に映し出しているのか私にはわからない。当然かなり美化されているだろう。
だが、ウクライナの人々がこのような物語を繰り返し服用することによって国民的アイデンティティーを基礎づけてきたのだとすれば、今回のプーチンの侵略についても、多くの国民は強い既視感を覚えたはずである。「また映画と同じことが起きた」と。そして「映画の登場人物たちはこのような状況でどう行動したか」を参照しつつ、それを再演するにせよ変奏するにせよ、自分の次の行動を決定したはずである。
興味深かったのは戦争を描いた映画が必ずしも「ウクライナの英雄的愛国者対鬼畜ロシア・親露派」という単純な善悪二元論ではなかったことである。ウクライナ兵同士でも銃を執った動機が違い、あるべき国の理想像が違い、歴史解釈が違い、議論し、罵(ののし)り合う。一方、ロシア兵や親露派にも必ず侵略の大義名分や個人的な厭戦(えんせん)気分を語らせる。さまざまな視点を提示して、観客に「誰に理があるか、あとは自分で考えてくれ」と差し出すというタイプの戦争映画だった。映画を観て、ウクライナの人々がこれまでずいぶん苦労してきたこと、その経験によってある種の政治的成熟を遂げたということだけは私にもわかった。
内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数
※AERA 2022年3月14日号