哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。

哲学者 内田樹
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 ウクライナ侵攻が始まって3週間余りが経過した。侵略3日後に私はSNSにこう書いた。「プーチンのシナリオは(1)電撃的にウクライナ軍を撃破(2)キエフ占領(3)大統領逮捕(4)傀儡(かいらい)政権樹立(5)傀儡政権によるロシアとの平和条約締結と東部独立承認(6)反ロシア派市民の大量国外脱出、というものだったと思う。それを48時間以内くらいで仕上げるつもりだった。ふつう戦時大統領に対しては熱狂的に支持率が高まるが、ロシア国内世論はそうなっていない。プーチンが一番恐れているのは国内で『この戦争には大義がない』という世論が広まることだろう」

 プーチンのこのシナリオは破綻(はたん)した。親露派による傀儡政権を立てて、ウクライナ属国化の既成事実を作ってしまえば、欧米は足並みが乱れて効果的な制裁に踏み切れない。プーチンはそう予測してことを始めたのだと思う。私のような門外漢でも公開情報からそれくらいのことは推測できる。問題なのは私のような素人でも推理できる程度の「プランA」だけしか持たずにプーチンが戦争を始めたらしいということである。

 短期間に首都を制圧できなければ当然泥沼の持久戦になる。ウクライナ市民の抵抗の意思は強く、士気は高い。一方、ロシアの側には国内外から熱烈な支援を集められるほどの大義がない。「ウクライナ政府はネオナチに支配されている」というプロパガンダを信じるのは情報統制下にあるロシア国民だけだろう。この国際的孤立の中でどうやってロシアは退勢を挽回(ばんかい)する気なのか。

 プーチンは早々と「核攻撃」というカードを切ってきた。これは第3次世界大戦を始めてもいいのだという意味である。自分が退場する時には人類を道連れにしてもいいという意思表示である。「プランA」がダメならBもCもなく、いきなり「プランZ」というのは要するに「プランがなかった」ということである。これは大国の指導者としてはあり得ない失策である。失敗の可能性をゼロ査定して戦争を始めた時点でプーチンはすでに負けていた。彼が何億人かを道連れにできたとしても「負けた」という歴史的事実は変わらない。

内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数

AERA 2022年3月28日号