宝田明さん
宝田明さん

「日本に帰るまでの約2年は、学校も行かず、無我夢中で働きました。一番苦しかったのは、日本人のご婦人が、ソ連兵に裸にされて辱めを受けている姿を目撃してしまったこと。そして、石炭運びの使役を終えた頃に、見知らぬソ連兵から脇腹を銃で撃たれたことです。軍医さんが私のおなかから取り出してくれたのは、国際法で使用が禁じられている鉛の弾で。麻酔もなく、縫合もできず、抗生物質もなく、治るまでの3カ月間は、昼夜を問わず激痛が走りました。今も、その銃弾の痕は消えていません」

 苦労を背負ってきた宝田さんだが、ハルビン生活で身についたコスモポリタンの精神は、日本に帰った後も消えることはなかった。日本的な、士農工商の名残がある環境にはなじめなかったけれど、自分の気持ちは胸に秘め、大らかに朗らかに過ごすようにつとめた。日本人の同級生たちから、最初につけられたあだ名は「大陸」だった。

「日本に帰ってきて、少し生活が楽になった頃でしょうか。学校で古今集を習ったんです。中でも、特に心に残ったのが、在原業平の『世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし』という歌でした。いつか何らかの形で、この桜への思いを形にすることはできないだろうか。そんなことをぼんやり考えていました」

 俳優生活も、あと何年かで70年を迎えようとする頃、宝田さんの元に、「プロデューサーとして映画を作りませんか?」という話が持ち上がった。

「プロデューサー、あるいは監督として自分の思いを込めた作品を作りたい。大勢のスタッフや俳優を前に、『よーい、スタート』と声をかけてみたい。それは、映画に携わった人間なら誰でも一度は考えることです。その夢が、米寿を前に、多くの方のご支援によって実現することになったとき、満州で恋い焦がれた桜のことが思い浮かんだ。平安時代にも在原業平が桜に恋い焦がれ、戦中から戦後にかけての私もまた、日本の美しい桜を夢にまで見ていた。そういう時空を超えた桜のイメージがクロスオーバーして、カチッと小さな火花が舞った気がしたんです」

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