映画「世の中にたえて桜のなかりせば」は、4月1日から丸の内TOEIほか全国公開 (c)2021「世の中にたえて桜のなかりせば」製作委員会
映画「世の中にたえて桜のなかりせば」は、4月1日から丸の内TOEIほか全国公開 (c)2021「世の中にたえて桜のなかりせば」製作委員会
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 3月14日、肺炎で亡くなった俳優の宝田明さん。生前のインタビューで満州からの引き揚げ者としての記憶が、今も心だけでなく、身体にも深く刻まれていると話していた。恋い焦がれた美しい日本の桜をテーマに、87歳にして初めてプロデュースを手がけた映画についても。

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 いつか、桜の季節に、皇居のお堀端で満開の桜を見上げてみたい。それが、1934年に朝鮮で生まれ、2歳から12歳までを旧満州で過ごした、宝田少年の夢だった。

「鉄道技師だった父が満鉄に転勤になり、私が国民学校の2年生のときに、ハルビンへ、一家で移り住んだのです。『アジアのパリ』と呼ばれたハルビンはそれは美しい街で、多民族のるつぼでもありました。満州国は日本・朝鮮・漢族・満州族・蒙古族の『五族協和』を高らかに掲げていて、ロシア人のお祭り、中国人のお祭り、日本人のお祭りがあり、一年中祭りの連続(笑)。あのときに、私の中にコスモポリタンとしての精神が宿ったのだと思っています」

 ただ、ハルビンは、真冬には零下25~30度を記録するほど寒い地域だった。日本から赴任してきた先生から日本の話を聞くたびに、「ああ、祖国日本」とため息をつくほど、幼い宝田さんにとっての日本は、遠い夢の国。中でも、異常なまでに関心を持つようになったのが桜だった。

「軍国少年だった私の夢の一つが、いつか海軍の予科練に入ることだったんですが、その理由にも、桜が関係しています。海軍予科練の制服には、金のボタンが七つついているのですが、そこで描かれているのが、桜とアンカー(錨)。それがキラキラ光るのが、子供心にものすごくカッコよく見えたのです(笑)」

 満州で終戦を迎えた宝田さん一家に、「我々が匿ってあげるから、急いで帰る必要はないよ」と言ってくれる中国人がいた。約2年後に日本に引き揚げるまで、一家は必死の思いで生き延びた。宝田さんは、ソ連兵相手に靴磨きとたばこ売りをして小金を稼いだ。

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