スキーリゾートでもパソコンがあれば仕事は可能。ちなみに、社長室のようなものはない。特定の人に特権的なものがあるとフラットな組織文化にはならないと語る(写真=今 祥雄)
スキーリゾートでもパソコンがあれば仕事は可能。ちなみに、社長室のようなものはない。特定の人に特権的なものがあるとフラットな組織文化にはならないと語る(写真=今 祥雄)

「私はアイスホッケーで優秀な選手を目指していたわけです。それは練習してスキルが身に付くことで達成できますが、優秀な経営者も同じだと知りました。経営者に必要なのは、実はスキルだった。ならば、それを目指そう、と」

 日本より経営学が進んでいたコーネルで学んだのは、学術的な理論ではなくビジネスのセオリーだった。こうすれば顧客は増える。利益は増える。そんな研究をしている学者がたくさんいたのだ。星野は学びを深めていく。そしてもう一つ気づきがあった。日本らしさ、という価値である。

「ときどき、フォーマルな衣装で出かける場があると、インドから来た人も中東から来た人も、自分の国の正式な服を着てくる。だから、スーツを着ている私に言うわけです。なんでお前は侍の国から来て、イギリスの民族衣装を着てるんだ、と」

 大学院を出ると、シカゴの日系ホテルで開業前から働いた。これをまさに実体験した。

「日本の会社がホテルを開業する、というと、日本らしさに周囲は期待します。その期待に応えるものがなかったのは、致命的なことでした。これでは、泊まってみたい、とはならない」

 日本はバブル期。後に世界中で日本のホテル事業は頓挫する。バブル崩壊という一言で片付けられたが、実は違うと星野は知っていた。西洋と同じことを日本人がしても意味がなかったのだ。日本のホテルが世界に通用しなかった理由だった。

「逆にいうと、実家の温泉旅館は、日本文化の延長線上にあるのかもしれない、とも思いました」

 88年、星野は故郷に戻った。副社長に就任。目指したのは、優秀な経営者。ところが家業を継ぐと、許容できない部分が見えた。同族の特権意識や公私混同。それが会社経営を不透明にし、スタッフのモチベーションを下げていた。改革をするべきだと申し入れたが、社長だった父親と対立。取締役会で副社長を解任されてしまう。

「周囲からは、若殿のご乱心、なんて言われました。親が退任するまで10年なり15年なり、黙っていればいいじゃないか、という声もあった。でも、その選択肢は私の中にはありませんでした」

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