社内で行われている会議に出席するも、「代表が出ている」といった堅苦しさはまったくない。社員も代表も言いたいことをどんどん言っていくのが星野リゾート流。「正しい議論ができれば、本当の正解に近づけるんです」(写真=今 祥雄)
社内で行われている会議に出席するも、「代表が出ている」といった堅苦しさはまったくない。社員も代表も言いたいことをどんどん言っていくのが星野リゾート流。「正しい議論ができれば、本当の正解に近づけるんです」(写真=今 祥雄)

■アイスホッケー部で 限界を超えることを知る

 軽井沢で生まれた。小さな温泉旅館の社長にとどまらなかったのは、両親の教育が大きかったのではないか、と語るのは、劇作家を父に持ち、子どもの頃から夏を軽井沢で過ごしている俳優の矢代朝子(62)だ。別荘地で毎年、一緒に遊んだ。

「家はアメリカのホームドラマに出てくるような西洋風でした。裏にはちびっ子ガーデンと呼ばれていた私設の公園があり、ジャングルジムの飛行機バージョンみたいな遊具まであった。何より驚いたのは孔雀が飼われていたこと。ご両親がいかに愛情を注ぎ、教育熱心だったかと思います」

 矢代によると母親は周囲の別荘族の子どもたちを集めて毎夏「星野子ども会」を開き、星野と都会っ子たちを交流させる機会を作っていた。

「伊能忠敬の子孫が絵画を教えていたり、慶應義塾の大学生が水泳や工作を見てくれたり。愛情は目一杯注ぐけれど特別扱いせず、小さな世界で勘違いするようなことはさせたりしなかったんだと思います」

 その母親の勧めで星野は中学受験に挑み、慶應義塾の中等部に合格。東京に移り住んだ。そして、アイスホッケーに出合う。品川区のジュニアチームでチームの全国優勝に貢献。大学に入ると、体育会アイスホッケー部に入部。4年生ではキャプテンを務め、1部リーグ昇格を果たした。同級生だった榎戸康二(61)は当時のことをこう語る。

「何十年ぶりかの昇格だったんです。それが唯一の目標で、逃げ出したくなるくらいストイックな練習の日々でした。自分にも厳しいんですが、その厳しさをみんなにも求めるんですね。一方で正義感が強くて、理不尽なことは大嫌いでした」

 この昇格体験は星野の人生を変える。

「ガムシャラに練習をしても、どこかで自分の限界を設定していた自分がいました。ところが、限界を超えられた。限界というのは超えられるのだ、とこのとき学びました」

 大学を卒業後、ホテルや経営について学びたいと考え、渡米してコーネル大学大学院に入学。ここで得たのが、新しいアイデンティティーだった。

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