人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、歳時記について。
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愛読書の一つが歳時記である。方々の出版社から出ているし、結社独特のものもある。
私はもっぱら文藝春秋社の山本健吉編『最新俳句歳時記 春・夏・秋・冬・新年』と、角川春樹事務所の角川春樹編『合本現代俳句歳時記』である。前者は装丁の古めかしさや古典的選句が気に入っており、後者は感覚が新しく、個性的なのが気に入っている。
芭蕉や蕪村の有名な句以外は、それぞれの選者の感性があらわれていて面白い。何も俳句を作る必要はない。ひまな時に寝ころがってページをめくるだけで季節感に浸れる。
その歳時記の定番であった『角川俳句大歳時記』が十五年ぶりに改訂されるという。いままでの例句を見直し、十五年間に出た句集などから秀れた句を入れる。
たとえば、春の季語では三・一一、東日本大震災の日が入り、例句として私が好きな照井翠の句集『龍宮』から、
「三・一一神はゐないかとても小さい」
などが入るという。
歳時記がみな同じだと思っている人がいるが、編者によっても、出版社によってもそれぞれ個性がある。そこが興味をそそる。特に例句を見れば特徴がわかる。私は角川春樹選が好きである。
いま見ると、なぜこの例句が入っているのかわからぬものも多く、季語もこちらの歳時記にあるのに他にはない場合も多い。
“春興(しゅんぎょう)”という季語がある。先日句会で出たのだが、文藝春秋社の山本健吉編にはあるが、角川春樹編の現代俳句歳時記にはない。そうした具合に季語の採用は歳時記によって様々なのだ。
春興については、私自身は春の華やぎと賑やかさが出ていて面白い季語だと思うのだが、使われないと消えていく運命にあるのだろう。
古くて現代語にはなくても雅びな表現もあるので、歳時記に残してあるものも多いが、やはり時代を反映するものに変わっていくのはいたしかたない。