「欧州最後の独裁者」などの異名を取るベラルーシのルカシェンコ大統領は、ロシアのプーチン大統領と歩調を合わせてウクライナ侵攻を手助けし、世界秩序の破壊者として欧米から白い目で見られている。影響はスポーツ界にも広がり、4月20日、テニスの4大大会のひとつであるウィンブルドン選手権の主催団体は、ロシアだけでなくベラルーシの選手についても大会への出場を禁止すると発表した。動向が注視されるベラルーシだが、そもそも、なぜルカシェンコ大統領はベラルーシで長期政権を持続できたのか。ベラルーシの日本大使館に勤めた経験を持つ一般社団法人ロシアNIS貿易会・ロシアNIS経済研究所所長の服部倫卓さんに話を聞いた。
【写真】プーチン氏の顔写真とともに「間抜けなプーチン」の文字が書かれた火炎
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「いま、ルカシェンコはプーチンと義兄弟みたいなかたちでしか生きるすべがなくなっているのですが、つい2年前まではそうではなかったんです。もともとひどい独裁者でしたが、急にあんな感じになってしまった」
服部さんは、そう語る。
ベラルーシは旧ソ連構成国で、東にロシア、南にウクライナ、西にポーランド、北西にリトアニア、ラトビアと国境を接し、海とは面していない内陸国だ。ルカシェンコがベラルーシ大統領に就任したのは、実に28年前の1994年。長期にわたって強権を続けていることから、ベラルーシが「欧州の北朝鮮」とたとえられることもある。
ルカシェンコ大統領といえば、昨年の東京五輪での“悪態”も記憶に新しい。五輪で成績不振だった自国選手をののしり、逆に批判されると強制的に帰国させようとするなど、何かと子どもじみた言動が目を引いてきた。
だが、服部さんによれば、それはずっと以前からのことという。
■世界中に知れ渡った“奇行”
ルカシェンコがベラルーシ大統領に就任した4年後の98年、彼の“奇行”が世界中に知れ渡る出来事が起こった。首都ミンスク郊外にあった各国の大使公邸に、突然、立ち退きを命じたのだ。
当時、ベラルーシの日本大使館に勤めていた服部さんらも右往左往した。