その“空気”は、ベラルーシ国内にとどまらなかった。

「欧米の指導者たちも、ルカシェンコ体制は硬直的ではあるけれど安定しているし、ウクライナの例があるだけに、最悪とはいえない、と考えていました」

 それ以前に行われた10年のベラルーシ大統領選では、一部の市民がルカシェンコ政権への抗議活動を行い、当局はそれを手荒な手段で封じ込めた。この暴挙に対して欧米諸国は批判の声を上げ、以来、ベラルーシに対して制裁を科してきた。

「ところが15年ごろから徐々に制裁を緩和して、ほとんど撤廃された。欧米諸国はルカシェンコの人権侵害を批判し続けましたが、その一方で『この人あってのこの国』というか、ベラルーシの現状について諦念を持つようになった」

 さらに、現実的な思惑もあった。

「ルカシェンコは国際社会の問題児でしたけれど、彼との関係を維持することはロシアとベラルーシの間にくさびを打ち込むことにつながり、欧米諸国にとって利益になるという考え方があった。20年の大統領選の前にはボルトン米大統領補佐官が首都ミンスクを訪れるまでに欧米との関係が改善したんです」

 だが、その良好な関係に亀裂が生じたのもその年。2年前のその大統領選を境に、国内外からの“視線”に変化が起きた。

※記事の後編は<暴君ルカシェンコの微妙な立ち位置 プーチンの言いなりでもウクライナ参戦が「危険な賭け」の理由>に続く

(AERA dot.編集部・米倉昭仁)