映画の中で瀬戸内さんがこう話すシーンがある。
「あんたは映画を本当にやる気があるのか。臨終のシーンも撮らせてあげるよ。私がいいと言ってるんだからいいのよ」
酔っていたので覚えていなかったが、死後、録画を見た時には「こんな話までしていたのか」と驚いたという。
■悩める女性の救世主
「僕は先生が103歳とか104歳まで生きるに違いないとたかをくくっていました。最後の年越しの時に『私はもう長くないよ』と言われていたのに。それがコロナでなかなかお会いできなくなって、去年11月にとうとう亡くなってしまわれた。これはもう供養のためにもやるしかないという気持ちでした」
瀬戸内さんはにぎやかなことが大好きでいつもたくさんの人に囲まれていたが、豊かな孤独の時間も大切にしていた。
それなのに、出家して寂庵で静かな生活を送ろうと思っていたところ、10年目にお堂を建てて以降は思いがけなく多くの人々と関係することになってしまった。
「悩める女性たちの救世主ですよ。先生がやりたくてそうなったわけじゃない。でも、その方たちから得ることもあったとおっしゃっていましたね」
人々は瀬戸内さんの前に出ると本音をさらけ出す。
特に東日本大震災後、たくさんの被災者が岩手県の天台寺に集まって泣きながら瀬戸内さんに語りかける姿は圧倒的である。「この人になら何を言っても受けとめてもらえる」「きっと何か応えてくれる」という捨て身の信頼感さえ感じられる。
「本当に忙しいのに、先生はたくさんの小説も書き続けましたよね。ものを書くことに対する欲は真っすぐだし、強かったし、感動的でもありました。僕の話もいろいろな作品に小説として書かれています。2人で寂庵近くの清滝に蛍を見に行った時のことも、いつの間にか作品になりました」
それが映画のエンディングにも使われている。余人には入り込めない、エロスさえ感じる2人の世界が確かにあったのだ。
「先生は自分の責任ですべてを生きて、傷口にペン先を当てて作品を書いてきた人。僕はそんな先生からたくさんの薫陶を受けました。『道が二つに分かれていたら危ない方の道を行きなさい。その方が死ぬ間際になっても人生は豊かだから』と。『野垂れ死にしたい』ともおっしゃっていましたね。若いころ、小さな娘を置いて家を出たことに生涯罪の意識を持っていた。自分が病院で安らかに死んでいいはずがないと思っていたのです」
(ライター・千葉望)
※AERA 2022年5月23日号