カジュアル化・平易化が完成した漢字社会で育ってきた世代は、漢字をデザインとして見て、「竜」より「龍」のように画数の多い漢字をかっこいいと感じたり、「腥」の例のように「月」+「星」できれい なイメージだととらえたりする傾向が少なからずあると思います。そうした漢字使用に対して大人世代がおぼえる違和感は、外国人がかっこいいと思って着ているTシャツの漢字が、日本人からすると奇妙に見えるのと似た感覚かもしれません。
つまり、「漢字」が感覚的に捉えられる「感字」となってきているのだと思います。名前にも流行り廃りがあり、時代によって変わっていくもの。それは今も昔も同じですが、そこに漢字観の変化という新たな要素が加味されて、「いい感じの漢字」を使って名づけるキラキラネームが増えているのではないでしょうか。
■「自由」の背中に「責任」
過去に、「悪魔」と名づけようとして命名権について裁判になった事例や、子どもが名前をどうしても変えたいという事例はありました。これらはキラキラネームに限らず、いつの時代にもある論争です。ただ、いま主流となりつつある読めない名前は、非常識な親による命名権の乱用といったものではなく、漢字観の変化によるものです。そもそも、言葉というのは自然に生まれ、自由に使われる中で淘汰されていくのが本来の姿です。ですから、言葉を規制できないように、戸籍法で読み仮名をどこまで容認するかについては、いくら論議しても実際問題としては規制することは不可能ですし、自由であるべきだと私は考え思います。
言うまでもありませんが、「自由」には「責任」が伴います。名前も自由だからと言って、何でもよいわけではありません。子どもは、一生その名前を背負います。それに、何十年も生き続ける言葉を個人が作る機会など、自分の子どもの名づけの時くらいしかないでしょう。そういうことを考えると、愛するわが子への責任、そして日本語という言葉への責任も忘れずに、名づけをしてほしいと切に願います。
(構成/AERA dot.編集部・岩下明日香)