手を挙げる重信房子元幹部(中央)と、娘のメイさん(左)、大谷恭子弁護士(右)/撮影=上田耕司
手を挙げる重信房子元幹部(中央)と、娘のメイさん(左)、大谷恭子弁護士(右)/撮影=上田耕司
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 被害を受け、ご迷惑をおかけした方々に謝罪いたします――。1974年にオランダの仏大使館が占拠された「ハーグ事件」などにかかわったとして、殺人未遂罪で懲役20年の判決を受けて服役した日本赤軍の重信房子元最高幹部(76)が28日朝、刑期満了で東京都昭島市の東日本成人矯正医療センターから出所した。重信元幹部は病院前に集まった報道陣や支援者ら約150人の前で、過去の事件での被害者らへの謝罪の言葉を述べた。

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 午前8時ごろ、医療センターから出所し、報道陣の前に姿を現した重信元幹部。そこから車に乗り、数百メートル離れた、支援者らが集まる小さな公園前に移動した。

 重信元幹部が娘のメイさんらと車から降りてくると、一斉にカメラのシャッター音が響いた。重信元幹部が公園に姿を現すと、支援者からは「お帰りなさーい」などの声が上がった。一方、政治団体の車両数台が近くを通り、大音量で重信元幹部への非難や抗議の言葉を発していた。メイさんは自分が首からかけていたストールを、重信元幹部の首にかけてあげるなど、服役中にがんの手術を4回した母親の体調を気づかった。

 重信元幹部は、報道陣を前に、現在の心境などについて語った。

「出てきて、生きて出てきたなという感じが強くあります」

 そう話すと、伝えておきたいこととして、

「私の逮捕によって、多くの人たちにご迷惑をおかけしたことをまず、おわびします。そして、私たちの50年前の闘いによって、人質をとるとか、自分たちの戦闘を第一にしたことによって、見ず知らずの無辜(むこ)の人たちに対しても被害を与えたことがありました。そのことについては古い時代とはいえ、この機会におわびします。そのことを今後の自分の出発点として据えていきたいと思っています」

 などと謝罪した。

 日本赤軍は、赤軍派の活動家だった重信元幹部らが、1971年にレバノンに出国して結成した。重信元幹部は最高幹部として、海外から「世界革命」を提唱。日本赤軍によるテロ事件は、72年のイスラエルの空港で自動小銃を乱射したほか、74年にはオランダのフランス大使館、75年にはマレーシアの米国大使館を占拠。77年には日航機を乗っ取り、服役中のメンバーたちを「超法規的措置」で釈放させるなどの事件を起こした。

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上田耕司

上田耕司

福井県出身。大学を卒業後、ファッション業界で記者デビュー。20代後半から大手出版社の雑誌に転身。学年誌から週刊誌、飲食・旅行に至るまで幅広い分野の編集部を経験。その後、いくつかの出版社勤務を経て、現職。

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