延江浩(のぶえ・ひろし)/TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー (photo by K.KURIGAMI)
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 TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。本土復帰50年を迎えた沖縄について。

【写真】歌人の平山良明さんと沖縄出身のシンガー・ソングライター・普天間かおりさん

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 戦後の伝説が事実だと知ったのは5月の沖縄だった。アメリカ兵の死体を洗う仕事があったのだ。

 本土復帰50年特別番組「血や怒り悲しみでもなく人を抱く色として咲けハイビスカスよ」の取材だった。

 短歌を通して現在の沖縄を考える企画で、沖縄出身のシンガー・ソングライター普天間かおりさんと梅雨入りしたばかりの現地を訪ねた。

「朝鮮動乱の頃です。死体を洗ってアメリカに送る仕事。1体で1ドルもらえた。教員の初任給が40ドルくらいで、僕は55ドル、60ドル近く。でも僕らよりも奄美大島が先に(本土に)復帰して、僕の2倍の大体100ドル、150ドル。彼らの2倍がフィリピーナ。その2倍の350ドル、400ドルが黒人、白人はその2倍。沖縄の人はだいぶ下だった」

 話を訊いたのは歌人の平山良明さん。1934(昭和9)年、国頭(くにがみ)郡今帰仁村(なきじんそん)生まれの87歳。小柄で透き通るような声。第2次大戦で沖縄は地上戦の舞台になり、アメリカ軍の猛攻撃は「鉄の暴風」と呼ばれて県民の4人に1人が亡くなった。

 平山さんは11歳で終戦を迎え、サンフランシスコ講和条約で日本は7年後に独立を果たすが、沖縄はアメリカ施政下に置かれたままになった。国際政治の「捨て石」となった風景は今も変わらない。

 琉球大学の学生だった頃から短歌を詠んできた平山さんにマイクを向けても、ほぼ10分おきに飛ぶオスプレイの騒音で、声がかき消される。

 インタビューをした普天間かおりさんは本土復帰時をリアルタイムで知らない。「本土と行き来するのにパスポートが必要だった」「通貨はドル」「クルマは右側を走っていた」。これは91歳になる祖母に聴いていた。

 プロ歌手を目指し上京、「品川の女子高に編入してクラスで君が代を歌った時、泣いてしまいました。やっと日本人になることができたと思ったからかもしれない」と振り返る。「沖縄ではおじいやおばあが亡くなったとか、そういう話が必ず出る。でも本土の人は沖縄は海がきれいね。そればっかり」

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