まあ結果はかなりうまくいったらしいけれど、結局心臓が大ケガをしたそうだ。でもこれによって心臓の大掃除が出来たと聞く。コロナ以来、息切れが激しかったのも、心筋梗塞(こうそく)の前兆だったのかな。今までも、動脈血栓も患ったことがあるけれど、あのまま絶命する人もいるんじゃないかと思うほど地獄の一丁目で死の疑似体験をさせられたが、死が怖いというより苦痛の方が激しいので、死ぬこと自体が怖いわけではなかった。むしろ、あのままコトッと死ねたとしても、死の怖さではなかったと思う。苦しいことがイヤなわけで、一般的に死を恐れることは大したことではないような気がした。むしろ苦痛から解放されたいためには死が救済になるのではないか。僕はそんなことを七転八倒の中で考えていた。

 一般的に死を恐れるのは、死によって自己という存在が消滅するという単に形而上的な問題を恐れているのであって、人間の実体が肉体ではなく霊魂であるという認識があれば、死ぬこと自体はどうってことないように思えた。僕が苦しかったのは死の恐怖というより、肉体の受ける苦痛からくるダメージの方だった。面白いと思ったのはパニックの中で人間って、結構、冷静にものを考えるもんだなあ、とわれながら感心したことだった。

 漠然と死を恐れる多くの人間は、物質としての肉体の消滅で、これは唯物主義的な発想からの恐れに過ぎないのではと思った。そういう人は死は虚無だという哲学を恐れているのであると僕は思いながら、肉体がいまいましく感じるのだった。僕はそんな虚無的なインテリの死の哲学など持ち合わせておらず、人間は死んだら、そのまま肉体を脱ぎ捨てて霊的存在となって、別の次元にいくと思っているので、死の恐怖はなかった。肉体の苦痛とは別に僕の想念は意外と冷静でこんなことを考えていることに、われながらちょっと驚きもした。苦痛を味わうのはまだ生の範疇(はんちゅう)で、死んではいない状態である。だからここで死が怖いというのはおかしいと思った。

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