「新日本でのハイライトは、誠心会館の看板を賭けた92年の新日本選手との抗争、その後の『平成維震軍』参加でしょうね。看板は道場の顔です。一時的とはいえ奪われたのですから、それを境にさらに青柳館長の目の色が変わりました」
こう話すのは、当時を知るプロレス雑誌の元編集者だ。
「青柳館長がすごいのは、『空手家なんだけど、プロレスに合わせられた』ってところです。空手家には順応しにくいプロレス流エンターテインメントである“技の受け”もこなし、見栄えのする大量流血もへっちゃら。異種格闘技を超えた試合ができるから人気も出たんです」
道場の看板を巡る抗争は、新日本の名カードとしてファンを熱狂させた。
「最終的には、抗争のきっかけを作った小林邦昭と青柳館長が一騎打ちを行い、両者レフェリーストップで引き分けとなって看板は返却されたのですが、空手対プロレスが一番盛り上がった時でしたね」(元編集者)
青柳館長に取材したとき、「看板は今も大切に保管している」と語っていた。
「作ったのは誠心会館を立ち上げた79年でしたから私がまだ23歳。以来、43年間、私とともに歩んで来ました。ただ、看板騒動では齋藤(彰俊)や弟子たちに、ずいぶん悔しい思いもさせたし苦労もかけた。それ以降も本来、道場を守らなければならないのに、越中(詩郎)さん、木村(健悟)さんらと『平成維震軍』を立ち上げ、他団体のリングにも参戦して道場は留守がちでした。いい思い出ではあるものの、今となっては反省点でもありますね」

新日本退団後は天龍源一郎のWAR、米・WWF(現・WWE)の日本興業「マニアツアー」、東京プロレスへ。2000年8月に故・三沢光晴がプロレスリング・ノアを旗揚げするや2カ月後の10月からリングに上がった。
その後、徐々に道場運営に軸足を置き、12年11月には空手道における文化教育活動が認められ、東久邇宮文化褒賞を受賞した。