転機は、89年7月2日、後楽園ホールで行われた梶原氏の一周忌追悼興行「格闘技の祭典」。プロデュースした梶原氏の実弟で、空手家兼作家の真樹日佐夫氏からオファーがあり、異種格闘技戦となったメインイベントで大仁田厚さんと大乱戦。一躍、注目を浴びたのだ。
「すでに32歳でしたが、待ちに待ったプロレスラーとの対戦。うれしかったですねえ。とはいえ、私は空手代表だけに負けるわけにはいかない。セコンドには佐竹(雅昭)、角田(信朗)ら他流派ながらチャンピオンクラスの猛者が付き、向こうは若手時代の「邪道・外道」コンビにスペル・デルフィンら。4ラウンドに大仁田の頭突きで私が流血し、興奮した双方のセコンドがリングの内外で乱闘を始めて、まさにケンカマッチでした」(青柳館長)
大仁田さんはその後、FMWを旗揚げ。リターンマッチとなった同年10月6日の旗揚げ戦で激闘を繰り広げた他、大仁田さんの7度目の引退シリーズで17年10月29日に対戦をするまでデスマッチも含めて何度も流血戦を重ねてきた。
「プロレスラー青柳があるのは、大仁田のお陰ですよ。うまく私のキャラクターを引き出し、プロレスの面白さを味わわせてくれたんですからね。でもあくまで基本は空手。だから道着でリングに上がるし、遠慮なく蹴り倒していました」(青柳館長)

身長こそプロレスラーに見劣りはしたが、それを感じさせないほど体はごつく、筋肉隆々だった。
「ウェイトトレーニングにかなり時間を割き、バーベルなら200キロ上げてました。空手だけで飯を食えるようになったのは31歳ですが、それまでずっとトラック運転手をしており、赤信号で停車するたびに助手席に置いた5キロのダンベルを持ち上げていたんですよ(笑)」(同)
剛竜馬の新団体「パイオニア戦志」を経て、主戦場を新日本プロレスに移してからも話題には事欠かなかった。
90年6月12日、福岡国際センターでの獣神サンダー・ライガーとの異種格闘技戦はドクターストップにより青柳館長が敗れたが、マスクマンのライガーが試合中に自らマスクを脱ぎ捨て素顔で戦う、掟破りの一戦となるほどエキサイトした。