『インテリジェンス都市・江戸 江戸幕府の政治と情報システム』
朝日新書より発売中
ロシアのウクライナ侵攻は、アメリカ政府が早くから警告していた。不明な私などは、まさかそのようなことは起こらないのではと半信半疑だったが、その通りになった。衛星写真だけではなく、ロシア中枢から確信のもてる機密情報を得ていたアメリカ政府の高度な情報収集能力に驚愕した。各種の情報機関をもっている日本政府は、どれくらいの情報を得ていたのだろうか。
正確な機密情報、すなわちインテリジェンスをどれだけ集められるかは、国家と政権の命運を左右する。その対象は、国家、企業、研究機関、個人など多岐にわたる、ごくごく内密の情報を入手しようとする。
ひるがえって、前近代の国家権力も何らかの情報機関をもち、日常的に情報収集をしていたのではないか。私は、江戸幕府の情報機関の収集した情報が、政治判断、政策選択とどう関わるのかに関心をもって本書を書いてみた。
江戸時代は、幕府(将軍)と地方の藩(大名)が全国の土地と人民を支配する権力機構をつくりあげた。江戸は政権の所在地であり、その意味で首都だった。幕府は、全国に散在する領地(幕府領)に代官を派遣し、大坂、京都、長崎など重要な直轄都市に所司代、城代、奉行をおき、全国を支配する政権だった。参勤交代制度の確立もあって、街道・海運はすべて江戸を起点・終点として整備され、物流も情報もすべて江戸に集中する仕組みだった。幕府は、各地の幕府役所から、また江戸に集中する交通により全国の情報を入手できた。
幕府は、機密情報を収集する専門の組織と役人、隠密をもっていた。具体的には、(1)基幹的情報機関である[目付―徒目付―小人目付]、(2)勘定所の普請役、(3)将軍直属の御庭番、(4)町奉行所の隠密廻り同心、などである。
(1)と(2)の情報は、政権運営を担う老中に集められた。(1)の小人目付は、幕臣の素行を調べ、役人の登用、昇進の重要な判断材料になった。さらに、江戸で入手した情報を調査するため、変装し偽名を使って全国各地へでかけた。(2)の普請役は、河川工事や街道の道橋工事などにあたる土木技術者だったが、その一部は、蝦夷地とその奥のクナシリ、エトロフ、カラフトなどを探検する任務も果たし、蝦夷地の実態、アイヌやロシアの動向に関する隠密な情報を収集し、幕府に蝦夷地や対ロシア政策の重要情報を提供した。
(3)は将軍独自の情報収集で、変装し全国各地に派遣されたまさに隠密である。その報告書は、将軍の政治判断の重要な資料になり、いったん正式に発令した所替(転封)を中止・撤回するという、重大な政治判断の材料になった。
幕府の圧倒的な情報収集能力は、安定した政権維持に重要だった。普請役と御庭番は、ともに八代将軍吉宗が創設した役職で、情報収集能力の向上による幕府の安定維持という点で、吉宗の果たした役割はこの面で大きかった。
しかし、幕府は安政五年(一八五八)、「鎖国から開国へ」の大転換を決定づけた日米修好通商条約締結への反対論を封じるため、天皇の許可である勅許を得ようとする前代未聞の選択をした。天皇・朝廷が幕府の政策に反対するとは考えてもみなかった幕府は、容易に勅許を得られるものと判断した。そのため、開国への大転換を情緒的に嫌悪する天皇・公家たちの雰囲気や、政策転換に反対する勢力による公家への活発な工作の影響力を見誤った。結果、勅許獲得に失敗し、勅許を得ないままの調印に追い込まれてしまった。「開国」か「鎖国」かという国家の根幹に関わるテーマで幕府は朝廷と対立し、抵抗する反幕府勢力と激しい政治・軍事闘争を引きおこして崩壊に向かった。明らかに、情報収集と分析の手抜かりが幕府の崩壊を早めたのである。
ペリーは、二度目に浦賀に来航した嘉永七年(一八五四)一月、将軍徳川家定へ電信機を献上した。幕府は、ただの珍奇な贈り物として受け取っただけらしいが、その性能にいち早く着目し研究に着手したのは、薩摩藩や佐賀藩など幕府の抵抗勢力になってゆく雄藩である。明治新政府は、国内の電信網の整備に力を入れ、明治二年(一八六九)に東京と横浜の間に、さらに明治七年には、九州から北海道まで列島を縦貫する電信線を竣工させ、新たな情報収集・伝達手段を獲得した。文化四年(一八〇七)に箱館から江戸まで信じられない「神速」で秘密情報を伝えた早馬も、七、八日間かかっている。しかし、文字や図を電気信号に変えて電送する電信は、新たな通信手段であり、革命的な早さで情報を伝達した。雄藩がこれに着目し、明治政府はいち早く導入した。江戸幕府は、それまでの情報収集能力の優位性に胡座をかいて立ち遅れ、その崩壊はこの面からも必然的だったといえる。やはり、情報を制する者が国家を治める、ということだろう。