しかし潘漢年は生前不遇だった。50歳を目前に控えた1955年にでっち上げの罪により失脚を余儀なくされ、後半生を監獄や労働改造所で過ごし、77年に敵のスパイという汚名を着せられたまま死去したのである。片や康生は我が世の春を謳歌している。一度も失脚することなく、毛沢東の寵愛を受けて、最終的に党内序列第3位にまで昇進し、75年の死去に際しては、中国共産党から最高の称賛に満ちた弔辞を捧げられたのである。

 もっとも潘漢年と康生は死後に立場が逆転する。まず1980年に、康生が弔辞を取り消された上で中国共産党から除名処分を受けた。次いで82年に、潘漢年が名誉回復を遂げて最高の賛辞を捧げられるに至り、今日ではリアルなスパイのヒーローとなったのである。

 鄧小平のイニシアチブにより国家安全省が設置されたのは、潘漢年と康生が死後に評価を逆転させた直後の1983年のことである。これより鄧小平が国家安全省の設置に託した思いを推測できよう。情報機関は、それまで康生の鬼のボスのような振る舞いを範としてきたが、今後は潘漢年のスパイのヒーローのような振る舞いを範とせよ、ということである。鄧小平は、国家安全省が大量粛清の要因となった党内の政争からは距離を置き、外国勢力に対する諜報工作などに専念することを期待していたのだ。

 こうした鄧小平の期待に応えたのが、1985年に国家安全省の総元締めとも言うべき党中央政法委員会トップに就任した喬石である。喬石は権力に恬淡としていた。それだからこそ、当時、趙紫陽総書記肝いりの政治改革に伴って、党中央政法委員会の巨大な権限の削減を求められた際にも、喬石はあっさりと同意し、国家安全省が本来の諜報工作などに専念できるように取り計らったのである。

 しかし2007年に党中央政法委員会トップに就任した周永康は権力に執着し、政敵のスキャンダルを把握するために国家安全省を利用した。さらに習近平政権が成立すると、反腐敗闘争という大義名分の下、周永康を含む数多の党幹部の粛清のために、国家安全省をフル活用するに至る。今や国家安全省は潘漢年の振る舞いを範とする一方、康生の振る舞いも範とするようになったと言ってよい。

 潘漢年と康生、また喬石と周永康の詳細については、本書をご覧いただきたい。本書ではその他にも、国家安全省設置以来の歴代大臣、すなわち凌雲、賈春旺、許永躍、耿恵昌、及び現職の陳文清を取り上げている。さらに昨今、新疆ウイグル自治区でウイグル族への「ジェノサイド」を展開する陳全国らも取り上げている。今日、習近平の独裁を支える鬼のボスは誰だろうか?

暮らしとモノ班 for promotion
【フジロック独占中継も話題】Amazonプライム会員向け動画配信サービス「Prime Video」はどれくらい配信作品が充実している?最新ランキングでチェックしてみよう