「何も考えずに、口角を上げて笑顔をつくってみてください。不思議なことに、楽しいから笑ったわけではないのに、いつのまにか自然と楽しい感情がわきたちます。体の反応がまず起こって、それから感情があとで意味づけされるのです。赤ちゃんが感情表現を学ぶのも同じです。まずは周りの大人の“笑う”という行為をまねする。そのタイミングで、大人から抱っこしてもらったり、声をかけてもらったりと“気持ちいい”経験を積み重ねていくことで、“笑顔”=“楽しい”という結びつきが起こり、感情が理解されるのです」
赤ちゃんが表情を学ぶこの時期に、たとえばネグレクトや身体的苦痛を受けるなど大人から適切に応答してもらえない環境で育つと、“笑顔”が“楽しい”感情と結びつかなくなる可能性もある。赤ちゃんにとっては、周りの人の表情をまねながら感情を相手と共有していく経験が何より重要なのだ。
「誰もがマスクをしている今、子どもたちは“まねる”対象としての“顔”を経験する機会が減っています。マスク生活が今後いっそう日常化すると、パンデミック以前に育った世代が当たり前のように身につけてきた喜怒哀楽を理解すること、相手と感情を共有することが難しくなる可能性は否定できません」
他者を思いやる力の未熟な
就学期や思春期における影響
マスクで表情が見えないことは就学期の児童にも影響している。脳の“前頭前野”がいまだ未発達な段階にあるこの時期の子どもたちは、マスクをした相手の気持ちを察することに難しさを感じているようだ。
「マスクで相手の表情が見えないことが、コミュニケーションの障壁となっています。いざこざが起こったとき、相手に『ごめんね』と謝っても、マスクをしているので相手にその思いが十分伝わらず、トラブルが悪化してしまう場面も増えているようです。その背景には、脳の未成熟さがあります。文脈に応じて、今何をすべきかをイメージ・推論したり、感情を意識的に抑えたりする役割を果たす“前頭前野”とよばれる脳部位があります。前頭前野の成熟までには25年かかる。つまり、就学期や思春期のお子さんは前頭前野がいまだ成熟していないのです」
たとえば、目の前に悲しんでいる人がいたら、自分にとってうれしくてたまらないことがあったとしても、相手を気遣って笑顔を隠そうとするだろう。これは、前頭前野の働きによって、自分とは異なる相手の心を推測し、自分の感情を抑制して行動をコントロールしているのだ。
しかし、前頭前野の発達がいまだ未熟な段階にある子どもたちにとって、相手の気持ちを考えて自分の欲望を我慢するのは、もともと容易なことではない。
「今の子どもたちは、SNSなどサイバー空間でコミュニケーションする機会が多くなっています。コロナ禍は、それをさらに後押ししました。サイバー空間でのコミュニケーションが主流になると、相手の痛みなどに共感する力が低下していくかもしれません。なぜなら、体を使って相手と行動を共有する経験は、サイバー空間ではたいへん限られてしまうからです。友達が指を切って血を流しているのを見たとき、私たちは、思わず自分の手も痛いように感じます。これは、自分も過去に同じ経験をしたことがあるからです。痛かった経験が目の前の相手の行動と鏡のように重なる脳の反応が起こり、無意識に自分のことのように感じてしまうのです。フィジカル(物理)空間では、子どもたちは相手と体を介して直接コミュニケーションする経験が豊かに得られます。しかし、サイバー空間でのやりとりではそうした経験を得ることは難しくなります」