■籠城戦で垣間見た人間性
印象に残っているのは次第に劣勢となり、大学から次々と逃げ出す学生の姿だ。
「下水道から脱出するのもいた。入ったら生きて出られないんじゃないかと思うくらい狭い。当然、ものすごくくさい。大学の4年間って、人生でいちばん輝かしいときでしょう。でも、つかまれば最長10年、塀の中で過ごさなきゃならない。しかも、へたしたら中国本土の刑務所で。だから、生死をかけてもでも逃げる、という思考になるんでしょう」
一方、あの委員長は最後「香港の自由のためにささげる10年なんて短いものだ」と言い、投降したという。
「その様子を娑婆(しゃば)に出たとき、テレビで見たんですけれど、やっぱり、上に立つ人は違うわ、と思って、感心した。逆に粋がっているのにかぎって、最後は下水道から逃げたりする。よく、人間性が出ますよ。ああいうときって」
宮嶋さんが取材中、もっとも身の危険を感じ、警戒したのは暴力集団による「白色テロ」だった。
「デモ隊との衝突で、警察もいざとなったら堂々と武器を向けてきます。けれど、双方の武器をよく見て、立ち位置に気をつければそれほど危なくはない。まあ、実弾を使うようになったらさすがに危ないですけど。ただ、白色テロは怖かったですね。それこそいちばん危なかった」
■もう自由な取材はできない
当時、香港ではデモ隊の象徴である黒いシャツを着用した参加者が白いシャツを着た集団によって襲撃される事件が頻発し、「白色テロ」と呼ばれた。
「あれは危険すぎて撮れなかった。中国企業とか、大陸の資本家が雇っている暴力団がいるんです。それが地下鉄の車内とかで小人数になったデモの参加者を襲う。足をたたき折られて障害者になった人もいる。うちらだって、容赦なくやられる。周囲のカメラマンも白色テロをいちばん恐れていました」
宮嶋さんが最後に香港を訪れたのは19年12月。
もし、コロナ禍の事態にならなかったら、その後も取材を続けたか、たずねた。
「どうすかね。怖いすよね。『(香港国家)安全維持法』ができましたから。あれは外国人にも適用される。そういう恐怖がある」
昨年6月に施行された同法は、最高刑を無期懲役と定め、中国の国家安全を脅かすと判断した行為に対して厳罰で臨む姿勢を明確にしている。
宮嶋さんはしばらく沈黙した後、こう続けた。
「香港を訪れるのは中華人民共和国に足を踏み入れるのと同じになってしまった。死刑制度がないくらいの違いでしかない。もう、自由な取材はできないでしょうね。でも、その前に行かないより、行ってよかったです」
(アサヒカメラ・米倉昭仁)
【MEMO】宮嶋茂樹写真展「忘れられた香港-The forgotten State-」
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