写真家・岸幸太さんがいわゆる「ドヤ街」の人々を写しとった作品集『傷、見た目』(発行:写真公園林、発売:ソリレス書店)を出版した。岸さんに聞いた。
都会の雑踏を写したスナップショットは見慣れているが、日雇い労働者の街を写した写真集を目にするのは久しぶりだ。
日本最大のドヤ街、大阪・釜ケ崎をメインに、東京・山谷、横浜・寿町の住人を写した作品が収められている。
これまで、多くの写真家がこの人間味のある街を訪れ、撮影してきた。特に注目されたのは1960年代から80年代。当時はカメラによって社会問題に迫ろうとするドキュメンタリー写真の黄金時代だった。
その呼び水となったのが土門拳の『筑豊のこどもたち』(パトリア書店、1960年)。九州・筑豊炭田で困窮に瀕する生活を写した作品は大きな反響を呼んだ。同年、桑原史成は水俣病の取材を開始する。優れたフォトドキュメンタリーが次々と発表されていった。
同じころ、釜ケ崎の存在が全国に知れ渡った。61年、日雇い労働者の交通事故をきっかけに暴動が起こったのだ。以後、この街をテーマに写真、映画、小説など、数々の作品がつくられてきた。
最初、そこがどんな街かを知らずに釜ケ崎を写した
そしていま、岸さんはこの街に通い続けている。
――最初、不思議に思ったのは、78年生まれの岸さんが、なぜ釜ケ崎を撮っているのかなと。
「それはよく聞かれますね。あと、『出身は関西なんですか?』とか(岸さんは千葉県出身)」
どうやら、みな考えることは同じらしい。
「実はぜんぜん関係のないところから釜ケ崎に入っていまして。でも、知れば知るほど、これは中途半端にはできないなと、すごく思いました。写している対象が『人』ですから、ちょっと撮って、発表して、はい終わり、というわけにはいかない。もちろん、それは自己満足なのかもしれないですけれど」
初めて釜ケ崎を訪れたのは20歳のころだった。当時、警備員のアルバイトをしていた岸さんは、名神、名阪高速道路の現場へ「関西遠征」をした。そのとき3週間ほど滞在したのが「安くて何十人も泊まれる釜ケ崎のドヤ街」だった。
その後、東京ビジュアルアーツに入学。ストリートスナップで知られる元田敬三さんや有元伸也さんらに写真を学んだ。「人を撮るのは面白い」と感じ、「のめり込んでいった」。
そして再び、今度はカメラを手にして、釜ケ崎を訪れたのは2005年秋だった。
「あそこに行けば、おっちゃんがたくさんいたな。なんか、酒飲んで寝ていたな、と。そういうことで、とりあえず行ってみようと思ったんです。だから、釜ケ崎が日雇い労働者の街だとか、暴動があったとか、まったく知らなかったんです。恥ずかしいんですけれど」