当初は「写真が小さくまとまっていた」「予定調和な写真が多かった」
そこがどんな街なのかを知ったのは、釜ケ崎に通い始めた翌年、写真展「傷、見た目」(同シリーズ第一作)を開催してからだった。
「いろいろ人から『この本を読んだら』『この映画を見たら』と言われて。自分でも釜ケ崎のことを調べるようになりました。井上青龍さんをはじめ、いろいろな人が撮影した作品も見ました」
――井上さんもそうですが、いわゆる大御所と呼ばれる写真家たちが釜ケ崎を写してきました。物怖じする気持ちはありませんでしたか?
「そのへんが鈍感、みたいなところもあったと思うんです。あと、やっぱり、自分の考えとは違う、という写真が多かった。自分のはそういう写真とは違うんだ、という意識がありました」
「自分の写真」。それについて真剣に考え始めたのは初個展「Welcome」(04年)でのことだった。
「このころは(元田さんや有元さんと同じように)街で声をかけて人を撮っていたんです。でも、それだけだと、人のまねでもある。今後、写真家としてやっていくうえで、人を撮ることは外せないけれど、『自分の写真って、なんだろう』と、初めて考えたんです」
「Welcome」を改めて見ると、気になったのは、「予定調和な写真が多い」ことだった。
「声をかけて撮るって、やっぱり、こんな絵がほしい、みたいなことを求めていて。もちろん、発表するときの『写真選び』も関係してくるんですが、その前の段階で写真が小さくまとまっていた。そこからもっと自由になれたらなあ、と思いました」
「自分は、この人たちと圧倒的に違う。同一化はしたくない」
そんなわけで、05年に釜ケ崎を訪れた際は最初から「声をかけないで撮ると決めて行った」。
そこで「ほんと、ゾクゾクするような」感覚を味わった。「ここで何か撮れたら、元田さんじゃないけれど、(ええやん)って、すごく思ったんです」。
写真展「傷、見た目」では「ここに自分の写真があるかもしれないと感じた」作品を展示した。
「いま思うとすごくつたない写真だったかもしれないですけれど、自分の立場、おっちゃんたちとの距離感、そういうものを感じた。それで、もう一回行ってみよう、と思ったんです」
その後、岸さんは釜ケ崎だけでなく、山谷や寿町にも足を運ぶようになるのだが、出会った人に「声をかけない」撮影スタイルは一貫している。私はその意図について、繰り返したずねた。
返ってきた言葉からは日雇い労働者の姿を隠し撮りしようという意図はまったく感じられなかった。
印象に残ったのは、声をかけず、コミュニケーションをとらないことで自分と相手を切り離し、「他者」として写しとろうとする「背中に鉄板が入るような」意志だった。
「自分は、この人たちと圧倒的に違うというか、同一化はしたくないという気持ちがものすごくあります。境界線をあえて自分でつくる、というか。人を撮って、どこか安心できてしまうような写真にしたくない。自分をこの人たちを通して写し出すような感じの写真にはしたくないんです」