写真家・田代一倫さんの作品展「2011-2020 三陸、福島/東京」が3月4日から東京・目黒のコミュニケーションギャラリー ふげん社で開催される。田代さんに聞いた。
田代さんが以前発表した作品「はまゆりの頃に:三陸、福島 2011~2013年」に加え、東京で写した写真で作品展を開くと知り、インタビューを申し込んだ。
私が初めて「はまゆりの頃に」を目にしたのは、まだ震災が生々しかった2013年。その被災現場で写された大量のポートレート写真。
田代さんに作品を写したときのことをたずねると、声をかけたほとんどの人から撮影を断られたという。
「責められることは多かったですね。『他人の不幸で飯を食うな』と。でも、おっしゃることはごもっともなんです。いちばん申しわけないな、と思ったのは、『勘弁してくれ』って、ぼそっと言われたとき。そのとき、(あー、そうですよね)と思いました。うーん。(長い沈黙)葛藤はすごくありましたね。どこまで踏み込むか、どこまでなら許されるのか」
「この土地を知っている人が行ったら、たぶん、こんな乱暴なことはしなかっただろうと思いました」
――でも、乱暴なことをしていたつもりは当然ないわけですよね。
「そうですね。その葛藤ですかね」
「報道をしているんだったら、避難所の中を撮りたいでしょ」と、案内する女子高生
撮影のきっかけは、震災の1週間後、用事があって福岡の実家に帰った際、目にした光景だった。
「東京は自粛とかで暗かったじゃないですか。ところが、福岡はふだんと同じくらいめちゃくちゃ明るくて。その距離の違いを如実に感じたんです。そのとき、実際に現地を行って、見てみたいと思いました」
被災地を訪れたのは「自分の興味でしかなく」、撮影した写真を「発表して伝えるつもりも全然なかった」。
「まあ、行って、どんな生活をしているのか、どんな話をしているのか、というのを聞いてみたいと思いました」
田代さんが語った撮影の動機は、軽いノリのようにも聞こえ、正直、困惑した。壊滅してがれきとなった街とのギャップはあまりにも大きく、その赤裸々な発言は悲惨な現実から遊離しているようにも感じられた。
最初に被災者のポートレート写真を撮影したのは岩手県釜石市。震災から約1カ月後の4月15日だった。
「女性が3人、井戸端会議をしていたんです。ふだん、私たちの街でも聞くような声、笑顔で話していて、(ああ、これなら声をかけられるな)と思って、声をかけたら撮らせてもらえたんです」
すると、一人が「自宅の2階に、津波で流された方の遺体が挟まっていました」と、語った。
それを耳にした瞬間、それまでがれきを目の前にしてもどこかテレビ映像のように感じていたのが現実となって押し寄せてきた。
翌日、隣の大槌町で出会った女子高生からは「ついて来てください」と言われ、避難所に案内された。田代さんが昼食を食べていないことを知った彼女は、「お弁当があるというのと、報道をしているんだったら、避難所の中を撮りたいでしょ、という感じの申し出で、ついて行ったんです。でも、避難所の入口に立ったら、食べもののにおいとか、すごくいろいろな話し声がして、生活の風景が一気に押し寄せてきたんです。『あ、ごめん、やっぱりここには入れない』と言って」、避難所を後にした。