実情を知った宮澤は血の気が失せた。財務部長は姿をくらます。会社は倒産し、健康ランドは閉鎖されて「負債総額約45億円、横浜地裁に破産の申請」と地元紙に書かれる。宮澤は債権者集会で罵声を浴びせられ、深々と頭を下げて償いを誓った。銀行、債権者との裁判は、会社ではなく、宮澤個人で受けて立つ。裁判は7年以上続いた。時間はかかったが、債務は返した。

 財務部長の末路は凄惨だった。借金を重ねて株に投資してすべてしくじる。債権者や警察に追われて逃げ、最後は妻をあやめ、自らの命も絶った。宮澤は、個人で裁判を闘った理由をこう語る。

「いつも子どもたちに逃げるなと言っていて、おれが逃げたらダメ。逃げるな、とは本質から離れるなって意味。本質を掴んでいれば、どんな状況でもつながりは残ります。逃げたらおしまい」

 乗っ取りの窮地を脱した宮澤は、心機一転、教育の原点に返ろうとして、また壁にぶつかる。95年、宮澤学園の提携先の通信制高校、科学技術学園の校長が代わり、「今後の協力は難しい」と通告されたのだ。そうか、だったら闘おう。子どもを守る。よその通信制高校にはもう頼らない。ただ、制度的に技能連携校を高校に変えるのは難しい。ならば広域通信制高校を新設し、「分校」扱いの学習センターを各地に置いて全日制同様に通学できるようにすればいい、と考える。

 宮澤の戦略は水際立っていた。

 だが……「変な子の学校はいらない」と開校を打診した自治体から次々と断られる。もうだめだ、と諦めかけた。すると、天の配剤か、北海道芦別市から学校誘致の手紙が舞い込んだのである。

 かつて炭鉱で栄えた芦別は石炭産業の衰退で過疎化が進んでいた。市は学校を誘致して街を活性化させたい。当時の担当係長で、現在、芦別市教育委員会教育長の福島修史(61)は、宮澤との初面談を鮮明に覚えている。

「学習障害のことは知りませんでした。宮澤さんの熱弁に引き込まれた。芦別は何で学校を誘致したいのと訊かれ、街の活性化と言うのが打算的で恥ずかしくなった。で、芦別は石炭で戦後日本の復興を支えた自負がある。社会貢献したい。お手伝いしたい。おお、わかった。ガチッと握手です」

 ■不登校は特別ではない、通っても休んでもいい

 福島は星槎のスタッフと認可を受けるために北海道庁へ30回以上足を運んだ。紆余曲折の末、99年、技能連携校ではない、念願の通信制高校を開く。校名に「星槎」と付けた。「槎」とは不揃いの木で組んだ「いかだ」である。中国の故事に、少年が広い世界を見ようと星のいかだに乗って天の川を渡った話がある。それにちなんだ。

 宮澤が数々の試練を克服できたのは、自信を失い、殻に閉じこもっていた少年や少女が、適切な支援と関わりで劇的に変わる場面に立ち会ってきたからではないか。人生は、いつでもどこでも起死回生できる。子どもたちがそう教えてくれた。

 宮澤学園で学んだ新田悦子(38)は、かつてパニック障害に苦しんでいた。といっても、そんな病名は知らず、心療内科にかかったこともなかった。中2のとき、カラオケをしていて突然、動悸が激しくなり、吐き気で動けなくなった。その後は登校できない。高校に進んでも、電車に乗れず、不登校に陥るのは目に見えていた。偶然、宮澤学園を知り、体験入学をして「ここにしよう」と決めた。

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