宮澤と親交がある元文部科学事務次官で現代教育行政研究会代表の前川喜平(65)は、「不登校は学校側の子どもへの不適応」と言う。

「文科省が2005年に学校に来られない子に合わせて授業を工夫できる不登校特例制度を設けました。教科書どおりに授業しなくていい制度です。星槎中学が真っ先にこれを活用した。星槎は制度を上手く使って誰も気づかないニーズをとらえる。すき間産業的かな。宮澤さんは開拓者ですよ」

 もっとも、学校はかくあるべしと信じる保守派は星槎を目の敵にする。いちいち気にしてはいられない。「あいつは教育界のならず者、人生の暴走族だといじめられたなぁ。はっはっは」と宮澤は笑い飛ばす。ときには泥水をすするような苦境に耐え、三つの約束を実践してきた。きれいごとでは済まない、熾烈な闘いの半生を記しておこう。

 宮澤は、東京都町田市で手広く商売を営んでいた酒店の4男坊、末っ子に生まれた。「やっチャン」は四六時中喋りっぱなしでコマネズミのように友だちの間を駆け回り、遊びの計画をまとめた。小6のとき、在日コリアンの友人から親の仕事を手伝うので修学旅行に行けないと聞き、学級会に諮って先生や保護者を説得して一緒に連れて行った。中学では陸上部と地歴部、新聞委員を掛け持ちし、アマチュア無線を手がける。「まったく落ち着きのないADHD(注意欠陥・多動性障害)だよね」とは本人の弁。浪人を経て慶応大学文学部通信教育課程に進んだ。興味のある講義を聴講しまくって100単位を取る。「通える通信制」の原点はここにある。しかし、あと数単位取れば卒業というところで中途退学してしまう。

 そのころ、仲間3人と開いていた鶴ケ峰セミナーの運営に忙しく、大学どころではなくなったのだ。アパートの狭い部屋に小中学生が密集し、宮澤はトイレの蓋に座って英語を教えた。隣の奥さんが「騒ぐのもいいかげんにして。これじゃおちおちケンカもできない。うちは離婚するかどうかなの!」と怒鳴り込んでくる。やむなく木造の教室を建てた。遠足や運動会も催すツルセミは、個別指導で入試実績も良く、急成長を遂げた。

 ところが、塾生が有名校に合格する陰で、「これはおかしい」と首を傾げる事態が起きた。性格はよく、勉強も時間をかけて誰かがサポートすれば問題のない少年が高校に進めない。のちに学習障害や発達障害と診断される特性を持っていた。何とか進学させようとコネのきく私学にも相談したが、救えなかった。宮澤は悔し涙を流す。妻で同志でもある幸子(71)が回想する。

「ツルセミにはいろんなタイプの子がいました。勉強が苦手な子も、できる子が教えてあげてカバーした。ただ、点数が足りない男子は高校に進めなかった。本人も保護者も高校に行きたい。夫は、もう三つの約束を口にしていましたね。何とか希望をかなえたい、とスイッチが入った。無理しなくていいのにと思ったけど走り出しました(笑)」

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