『牧野富太郎の恋』
朝日文庫より1月10日発売予定
牧野富太郎。一八六二年、江戸時代末期、土佐国佐川村(現・高知県佐川町)に生を受け、少年時代に植物研究に目覚めて以降、全生涯を費やして国内の植物を調べ続けた。新種植物の発見は六〇〇種余り。彼によって命名された植物は二五〇〇種以上。我が国の近・現代を代表する大植物学者にして「日本植物学の父」とも称される。一九五七年没、享年・九四。死後にはその功績を称えられ、「勲二等旭日章」「文化勲章」も追贈された。
それほどの人物なら、一般向きに伝記や評伝も書かれよう。だが、それにつけても、こんにちまでに書かれた彼の伝記、評伝は、じつに数多い。弟子の認めたものから、児童書として発表されたものまで、夥しい数を数える。
では何ゆえ、それほどの伝記、評伝が書かれたのか。それには、大きな理由がある。
牧野富太郎は、とにかく“おもしろい”男だったのだ。
当人自身としては、学者として大まじめに研究に打ち込んだ。ところが、彼の人間性そのものが、あきらかに常人離れしていた。そこから生じる世間や学界とのズレ、衝突が、じつにドラマチックにして、おもしろかったのだ。
学者としては、とにかく優れていた。しかし、生活人・一般人・常識人としては、とにかくメチャクチャだった。
人懐っこい人物であった。会話も巧みで、誰に対しても損得抜きで接し、だから多くの人間に慕われた。
が、まずは、まともな金銭感覚がまったく欠如していた。
彼の実家は土佐でも一、二を争う造り酒屋で、大富豪であった。ところが、彼は自らの植物学研究に実家の財産を片っ端から注ぎ込み、ついには実家を破綻させてしまう。なおかつ、それからも研究のため借金に借金を重ね、こんにちの物価指数に換算して三億円ほどの借金まで抱えてしまう。
これだけの借金をどのように処分できたのかは本書をお読みいただくとして、とにかくその破天荒ぶりは、多少なりとも常識ある人物だったら、震撼してとても真似できるものではなかった。
さらに彼は、社会的地位に、まるで関心がなかった。
地位を得るには、それだけの段階を踏まねばならない。幅広い学習に努めて学歴を重ね、先輩格の地位ある者に接近する。つまりは積極的に“社会的成功者”になる努力を積まねばならない。だが彼は、そうしたことに時間を費やすのを生涯にわたり、まるっきり無視した。そんな真似をする時間があるなら、ひたすら地面を這いつくばって植物を観察し、採集することに執心した。したがって彼の最終学歴は、驚くなかれ「小学校二年中退」なのである。
優れた業績を上げる人物というのは、得てして、程度の差こそあれ「変わり者」が多い。しかしながら、牧野富太郎の「変わり者ぶり」は、桁外れだったのだ。端から見るなら、こんなにおもしろい人間はあるまい。当然、その生涯は大変にドラマチックで、評伝が数多く書かれ、読まれてきたのも納得である。
だが、そんな“飛び抜けた非常識人”である彼は、一方において、なんと妻子を持つ家庭人だったのである。
彼と半生をともにした女性。名を壽衞という。
二人は、明治時代の堅苦しい見合い結婚が主流の中にあって、二人だけの大恋愛によって結ばれた。その後も壽衞は、この一般常識からかけ離れた男である夫に、ひたすら尽くした。しかも、そんな生活の中で悲哀の欠片も見せず、毎日をたくましく、何よりも楽しく過ごした。この点において壽衞もまた、常識からかけ離れた「変わり者」だった。
それでいて彼女は、常に凜としていた。利発で“生活巧者”であった。人付き合いも上手く、研究に突っ走る牧野富太郎を、巧みにコントロールした。実際、彼女の支えなくしては、牧野富太郎の研究の生涯は、中途で明らかに挫折し、彼自身も破滅していたろう。
壽衞は、牧野富太郎を心底、愛していた。だから、何も求めず、ただ全身全霊を傾けて牧野富太郎の研究を支え続けたのだ。
牧野富太郎もまた、結ばれてからこの方、壽衞への愛は変わらなかった。壽衞は、彼が生涯一筋に愛した唯一人の女性だった。二人の恋心は、互いの死まで変わることはなかった。
本書は、牧野富太郎の研究人生を綴るとともに、そんな二人の恋と壽衞の愛を、メインテーマとして綴ったものである。その意味において、一般的な牧野富太郎の評伝と比べれば、やや異色であろう。
しかし、なればこそ、多くの読者に楽しんでもらう書となることを、信じて止まない。