『どろどろのキリスト教』
朝日新書より発売中
お正月には神道の神社に初詣し、お盆には仏教のお墓参り、キリスト教の宗教行事であるクリスマスも祝うという日本人に多く見られる宗教との向き合い方は、世界に類例のない、極めて特殊なものです。そうした日本人特有の傾向が「無宗教」や「多宗教」と称されることもあります。
人が亡くなれば、通常は、なにかの宗教で葬儀が行われます。自分は無宗教だと生前に公言していた方でも、死ねば、なにかの宗教によって弔われるのが普通です。どんな人でも、宗教から完全に離れることは難しいのです。
日本人の特殊な宗教観の根底には、かつて神道と仏教が融合していた「神仏習合」の影響が透けて見えます。神道の神様も仏教の仏様も、同一真理を別の言葉で語っている、という考え方です。キリスト教理解においても、同様の解釈をする方は珍しくなく、「キリスト教の神様も、神道の神様も、要するに同じなんじゃないの?」という意見を述べる方とお話をする機会が筆者は何度もありました。
筆者は、父方の祖母の代まで「福男選び」で知られる西宮神社の宮司の家系であったため、神道の神様とキリスト教の神様は根本的に異なることを肌感覚で理解していますが、両者を同一のように感じてしまう背景に、
「神様」という共通の名称が使用されている点を指摘できます。
かつてキリシタンの時代には、キリスト教の神様を示す言葉は、ラテン語の「デウス」でした。それが明治以後は仏教用語でもある「天主」と呼ばれ、最終的には神道で使われる「神様」という名称をシェアするようになりました。たとえ別の存在であっても、同じ名前で呼ばれていれば人々が同一視してしまうのは当然です。
似たような事例として、キリシタンの時代に、キリスト教の教会が「南蛮寺」と呼ばれていたケースも挙げられます。「寺」と呼ばれた教会を仏教の宗派のひとつだと誤解していた日本人も当時は多くいました。そのくらい呼称は重要で、個人的には、キリスト教の神様は英語の「ゴッド」やラテン語の「デウス」など、神道とは異なる用語を使ったほうが誤解を防げるのでは、と考えています。
自分の愛する人が命懸けの大手術をすることになったら、ふだん無宗教を自認している人でも、思わず神頼みをすることはあるでしょう。そこまでシリアスでなくても、合格祈願、厄除け祈願などで神頼みする人は多くいます。そうした際、もしあなたが豊かな白髭を蓄えた老人の姿をつい思い浮かべるなら、我知らず、西洋絵画で目にしたキリスト教の神様にお祈りしているのかもしれません。
キリスト教のことをよく知らないのに日本人の多くがクリスマスを大好きなのは、敗戦後の日本を支配した「戦勝国アメリカへの文化的な憧れ」と無関係ではないでしょう。特にサンタクロースのお伽話に子ども時代にワクワクした方は、その感動体験が根っこにあるはずです。製菓業界が仕掛けたバレンタインデーが流行したように、メディアに煽られて「クリスマスの聖夜を恋人と過ごす」という奇妙な風習も日本では定着しました。
そうした現象から改めて気づかされるのは、コンテンツとして非常に優れているキリスト教の特性です。最初は地方の民族宗教(ユダヤ教)の小さな分派に過ぎなかった集団が、迫害されるたびに勢力を増し、ついにはローマ帝国の国教となり、こんにちまで世界最大宗教であり続けてきたのは、コンテンツとしての強靭さゆえです。カルト宗教がキリスト教を都合よく採り入れて利用するのは、表面を模倣するだけで魅力的に見せられる特長がいくつもあるからです。ベストセラー本のパッケージを真似ただけで、そこそこ売れる本をつくれる仕組みと同じです。
キリスト教がコンテンツとしてなぜ優れているのか、という詳細を語るには紙幅が足りません。拙著『どろどろのキリスト教』をご参照いただければ幸いですが、ひとつだけ核心に触れます。「信じれば苦難が消える」という現世ご利益信仰を掲げる諸宗教とキリスト教は一線を画します。キリスト教は、「たとえ信じても苦難は消えないが、信仰によって逆境の中にも喜びや意味を見つけられる」と説きます。それこそ、どれだけ弾圧されてもキリスト教が発展し続けてきた秘密のひとつです。どんな人生の苦境においても、たとえ十字架に磔にされた時でさえ、「信じるクリスチャンは救われる」のです。
世界最大宗教であるキリスト教に知的好奇心のある日本人は多いと思いますが、これまでぜんぜん理解が広まらなかったのは、わかりやすいガイド本が不足していたことも関係しています。「世界の常識」であるキリスト教を理解し、「大人の教養」を高めるために拙著が少しでもお役に立てれば、それに優る喜びはありません。