僕は彼らと出会い話をするたび、後頭部を何度もガツンとぶん殴られるような気がしました。天地がひっくり返るような、今になって突然NASAかなんかが「やっぱり地球は平たかった」と言い出したような、そんな衝撃です。

 そして意外なことに、その振動に体を揺すられれば揺すられるほど、僕は自分の人生が少しずつ豊かになっていくように感じました。それはもしかしたら「許し」に似た何かだったのかもしれない。今はそう思います。

 僕は世界中のありとあらゆる「許さざるをえない人たち」と飯を食ってきました。それはもちろん、重罪人の生い立ちに耳を傾けて「それは仕方なかったね」と言うような簡単な話ではありません。ましてや、自分より過酷な境遇で暮らす人たちを見下ろして溜飲を下げるようなことでもありません。

 だけど僕は、彼や彼女と話をして、どこか自分が「許されていく」ような経験をしました。いつのまにか刷り込まれていた正義や道徳や、かくあるべしという当為。そういったものが少しずつこぼれ落ちて、呼吸がしやすくなるような気がしたのです。

 これ、上手(うま)く伝わっているでしょうか?

“表現”とは“諦め”だと、今回本を書いて思いました。

 今の自分では表現するに及ばない――。そう思って学べば学ぶほどに、これではいっそう足りないじゃないかと世の広さ深さを突きつけられる。

 だから、今の自分はこうなんだと、これが限界なのだと、諦め、受け入れ、折り合いをつけ、そしてようやくその瞬間の僕を提示すること。それが表現なのでした。だって、はじめは一行書くごとに「もっといい表現があるに違いない」と思っては先達の書物を読み漁り、もう一行書いては「こんな表現をしていては誰も読んではくれまい」と思って最初の行から書き直し。そんなことでは何一つ表現できないまま死んでいくしかありません。

 だから、“表現”は“諦め”なのです。

 ということで、500ページにわたって諦め続けたのがこの本です。人生をかけて諦めました。

 本当は僕の旅の話をいつも心待ちにしてくれたおじいちゃんに真っ先に読んでもらいたかったのですが、僕が毎晩諦めているうちに死んじゃいました。

 だから僕はまず、おじいちゃんの墓前にこの本を手向けたい。その後で、皆さんの墓前にもこの本を手向けられればと思っています(怖い話)。