「お茶の水橋」の補修・補強工事でアスファルトの下から出土した旧錦町線の軌道遺構(撮影/諸河久)
「お茶の水橋」の補修・補強工事でアスファルトの下から出土した旧錦町線の軌道遺構(撮影/諸河久)

 東京は五輪イヤーに突入した。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、先日、御茶ノ水駅近くの「お茶の水橋」補修工事で突如現れた都電の軌道遺構を解説しよう。

【貴重な明治末期の絵はがきに写る、路面電車が走る「お茶の水橋」付近の風景はこちら】

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 数日前、とんでもないニュースが知人からメールで送られてきた。

 <お茶の水橋上に、かつて都電が走った軌道遺構が現れた>

 神田川に架かるお茶の水橋の補修・補強工事の過程で道路上の厚さ5センチほどのアスファルトを剥がしたところ、件の軌道遺構が露出したそうだ。

 さっそく現地に赴いて、いにしえの軌道を見てきた。

■発掘された昭和の軌道遺構

 冒頭写真は、神田川を渡ったお茶の水橋北詰の横断歩道から撮影したもの。画面左側は神田川で、中央はJR御茶ノ水駅本屋になり、背景には駿河台の街並みが連なっている。

 ニュースを耳にしたときは「1904年の開業時の遺構か?」と思ったが、現在のお茶の水橋は1931年に竣工しているから、市営になってから敷設された軌道とすぐに判断できた。結論から言うと、お茶の水橋の橋上に敷設されていたのは、第二次大戦中の1944年まで運行していた都電錦町線(錦町河岸~御茶ノ水/1100m)の軌道だった。

 わずか5センチほどのアスファルトの下に85年以上前に敷設された軌道が眠っていたかと思うと、感慨深いものがある。

 同線はお茶の水橋の北詰を左折して、外濠通りに敷設された御茶ノ水線に合流していたから、別カットのように本郷台側から見ると、右に曲線を描いた線形になっていた。曲線の内側にあたる右側のレールには、護輪軌条の機能を持つ溝付きレールが使われ、外側は通常のレールが用いられている。

お茶の水橋の補修工事で現れたレール。曲線内側は溝付きレールが使われていたのがわかる。敷石の形状も独特だ(撮影/諸河久)
お茶の水橋の補修工事で現れたレール。曲線内側は溝付きレールが使われていたのがわかる。敷石の形状も独特だ(撮影/諸河久)

 敷石の形状にも特徴があり、レールと並行に長手の敷石が入り、その中間には縦方向に3個と4個の敷石を交互に詰めて仕上げられている。

■記憶に残る廃止軌道

 筆者は少年期に、橋上に残存している軌道を目撃した記憶がある。当時先輩に尋ねると「あれは明治期に開通した外濠線の本線で、水道橋から神田川に沿ってやってきた電車は右折してお茶の水橋を渡り、錦町河岸に向かっていた。戦時中に廃止された軌道敷きがそのまま残っている」と教えてもらった。

 参考文献をひも解くと、東京電気鉄道(通称外濠線)が土橋~御茶ノ水を開通させたのは1904年12月8日で、当初お茶の水橋の終点は御茶水橋と呼ばれていた。同月の31日には甲武鉄道の電車運転も飯田橋駅から御茶ノ水駅まで延伸され、御茶ノ水界隈は急激に開けていった。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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