「そんなこともありましたね(笑)。国会議員を叱ったのは、その時だけではありませんでしたよ。夫は1933年生まれで、戦争を経験しています。戦争は『起きるもの』ではなくて、『起こすもの』。若い人には理解できないかもしれませんが、今の日本で戦争を起こす雰囲気ができつつあることに、危機感を持っていました」(文子さん)
1956年に映画デビューし、1973年に「仁義なき戦い」で日本を代表するスターになった。「仁義なき戦い」はたんなるヤクザ映画ではない。原爆で壊滅した戦後の広島を舞台に、ヤクザの世界を通じて「裏切り」「弱者の切り捨て」など社会と人間の不条理を描いた。戦いで犠牲になるのはいつも若者で、戦争の悲劇にも通じる。「仁義なき戦い」が暴力映画であるにもかかわらず「反戦映画」と評されるのも、そのためだ。その主役を演じた文太さんは、一躍スターダムにのし上がった。
■ヤクザ映画の時代の終焉と俳優業の転機
かといって、スター俳優になっても生活に派手さはなく、質素だったという。
「性格が凝り性なので、仕事は徹底的にやる人。好きだったのはジャズとボクシングでしたが、芸能人の仲間と豪遊するとか、高級車に乗るとか、そういう趣味はまったくない人でした」(文子さん)
文子さんによると、文太さんに俳優としての転機が訪れたのは1980年代半ばだったという。1984年、稲川会をつくった稲川聖城初代会長がモデルの映画「修羅の群れ」で主役を依頼されたが、断った。文太さんは、文子さんにこんなことを話した。
「ヤクザ映画の時代は終焉を迎えている。そのなかで、自分もヤクザ映画以外の分野を切り開かないといけない。親分とのつながりで作る映画は、いずれ手詰まりになる」
その見立ては的中する。ヤクザ映画の市場は年々縮小していった。一方で、文太さんは様々な仕事をするようになる。「ビルマの竪琴」「鹿鳴館」など市川崑監督の作品の常連となったほか、ナレーションや声優の仕事も引き受け、アニメ映画「千と千尋の神隠し」で演じた釜爺は、宮崎駿監督から絶賛された。
社会貢献活動にも積極的だった。1985年には筋ジストロフィー患者の詩や俳句などを集めた『女といっしょにモスクワへ行きたい』を出版。患者との交流を続けた。同じ頃には、在日コリアンのための老人ホームづくりに協力し、募金活動の世話人の一人になった。