今年も、日本三大祭の一つに数えられることもある、長崎市最大の祭り「長崎くんち」が開幕しました。くんちの諸行事は6月から始まっていますが、長崎総鎮守の鎮西大社諏訪神社の例大祭、つまり本番は、まさに今日10月7日から9日までの三日間になります。唯一無比ともいえるド派手な出し物が次々と繰り出され、市内は熱狂につつまれます。「くんち」とは「九日」のことで、385年前の寛永11(1634)年に、旧暦9月9日の重陽の節供に祭りが始まったことから、九日=くんちと呼ばれるようになりました。このくんち、典型的な社寺縁起の秋祭りと思いきや、その起源には長崎ならではの歴史的事件がかかわっていました。
この記事の写真をすべて見る大人気の龍踊り、実は毎年は見られません。今年は?
長崎くんちの構成は独特で、参加する59町(踊町/おどっちょう)が、七つの組にクラス分けされ、その年の奉納の演し物を順番に受け持ちます。ですから、くんちの全てを知るには七つの組が一巡することになる七年必要である、といわれます。
踊町にはそれぞれ受け継いだ演目があるので、その年の受け持ち組によって、毎年がらりと出し物が変わるのです。
名物演目はさまざまありますが、中でも他には見ることのできない長崎くんち独特の演目として、祭のアイコンとも化しているのが「龍(じゃ)踊り」。銅鑼や太鼓、龍声ラッパが激しくかき鳴らされる中、全長20メートルにもなる龍を、唐人風の衣装をまとった龍衆がたくみに扱い、「玉使い」の操る柄の先の珠を追い、生きた大蛇のように激しくうねり、踊ります。
この龍踊りを受け継ぐのは籠町、五嶋町、諏訪町、筑後町の四町で、それぞれが別の組に属しますから、龍踊りが見られるのは七年のうち四年で、三年は龍踊りはない、ということになります。
もちろん、「鯨の潮吹き」「コッコデショ(太鼓山)」「竜宮船と乙姫」「宝船・七福神」「大漁万祝恵美須船」「唐子獅子踊り」など、伝統的な人気演目から比較的新しい迫力のある演目まで、バラエティ豊かですから、龍踊りのない年も決して引けを取るものではありませんが、やっぱり龍踊りが見たい!という観客も多いでしょう。今年2019年の担当組には、享保元(1716)年に、おくんちではじめて龍踊りを奉納披露したと伝えられる龍踊りの元祖・籠町が、50年ぶりの龍の新調を施して登場します。これは見逃せませんね。
江戸初期の長崎宗教戦争。それがくんちの起源だった
今年で385年になる長崎くんちの歴史。昭和20年夏の長崎原爆投下の年ですら、市民たちの頑張りによりその秋に開催されたという逸話から、「長崎市民の心意気」と称えられることが多いのですが、実はこの祭は人民たちによって自発的に発生した祭ではなく、江戸時代初期の長崎奉行・長谷川権六と長崎代官・末次平蔵による諏訪神社の勧請と建設、続いて「諏訪祭礼」の執行のお触れでは、従わない者は極刑、領地からの追放と言う厳しい罰が下るとし、強制参加がマストの官製祭礼が起源なのです。なぜ、当時の長崎奉行は諏訪祭礼を行うことを強行したのでしょうか。
これには、豊臣時代から江戸幕府開府当時の歴史が関わっていました。長崎は1571年、海外との貿易港として開港します。これにより、ポルトガルやスペインなどのカトリックの大国から多くの宣教師が訪れ、その布教活動により、キリスト教徒が増えていきました。そして切支丹大名として知られる大村純忠による寄進によって長崎・茂木はイエズス会の領地へと瞬く間に変貌していたのです。
驚いた豊臣秀吉は、天正15(1587)年、吉利支丹伴天連追放令(きりしたんばてれんついほうれい)を発して、宣教師による布教活動や人身売買、肉食などの日本の風土に合わない慣習を禁じました。しかしこれは、長崎のキリスト教徒(切支丹)たちの信仰心を反抗心に変えました。実際このときから洗礼受洗者の数は急増していますし、切支丹たちによる長崎に古くから存在した神社や寺への放火・破壊などの過激な行動がエスカレートします。長崎領内の寺院、神宮寺、神社などがほぼ全滅になるという惨事で、僧侶や宮司たちは、襲われる恐怖で外出もできなかったと伝わります。
これを受けて、慶長17(1612)年とその翌年に江戸幕府は「慶長の禁教令」を発します。宣教師の追放にとどまらない、徹底的なキリスト教の信仰自体の禁止と教会の破壊が命ぜられたのでした。それでもかえって信仰を厚くし、日本在来の僧侶神官への反感を高める長崎切支丹に業を煮やし、長崎代官は佐賀の修験者(山伏)・青木賢清を招き、新たに総鎮守を建設することを依頼します。先鋭化・暴徒化しつつあった切支丹に対抗できるのは、腕っぷしの強い山伏しかいない、と思ったのかもしれません。切支丹から見れば、山伏はまさに「天狗」。有翼の悪魔の化身として見立てられ、青木賢清の事業は切支丹たちのさまざまな妨害にあいますが、寛永2(1625)年、諏訪三所大明神社が創建され、その9年後から例大祭、つまり長崎くんちがはじまることとなったのです。
なぜ長崎総鎮守が「諏訪神社」となったのか?その背景と因縁
それにしてもなぜ、青木賢清は九州からはるか遠い東国信濃の諏訪明神を勧請したのでしょうか。山伏ならば山岳修験の愛宕神社や飯縄神社、浅間神社などがふさわしい気がしますし、幕府の威光により切支丹を鎮める意図ならば徳川家康の東照宮を、神道の権威と言うならば天照大神の神明社(大神宮)、さらには地元九州には、格別有力な神様・八幡神や宗像神がいます。長崎鎮守として諏訪神社よりふさわしいと思える神様がいくつもあり、何故諏訪神社が選ばれたのか?という違和感があります。
これについては、青木賢清が肥前松浦氏の眷属で、松浦氏が肥前の舵谷(現・長崎県松浦市今福町)に居城を構え、梶紋の諏訪明神を信仰したことから、青木自身も諏訪明神への信仰と、ツテがあったからと考えられます。諏訪明神は内陸ながら、もともとは海洋民だった安曇氏とも関係があり、強力な水軍で肥前に覇を唱えた松浦氏が信仰した所以も不自然ではありません。くんち随一の名物が龍踊りになったのも、龍が本体の諏訪明神の導きではなかろうか?と思えるほどできすぎのストーリーですらあります。
長崎くんちとは直接の関連はありませんが、諏訪明神という特異な神と、謎多き諏訪大社について、次回掘り下げていきたいと思います。
(参考・参照)
鎮西大社諏訪神社 例大祭
踊町と演し物
籠町「龍踊」を奉納 長崎くんち踊町5カ町発表