2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は国鉄(現JR)五反田駅前を発着する都電だ。
【54年が経過しても、あまり変わっていない!? 五反田駅付近の現在の写真や別カットはこちら(計4枚)】
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五反田という名称が示すように、辺りには水田が広がり、近辺は農家が多かったという。明治期のこの地は、東京府荏原郡下大崎村と呼ばれていた。この五反田に鉄道が通ったのは1885年で、日本鉄道が敷設した山手線だった。1906年に山手線は国有化され、1909年からは電車運転も始まったが、五反田の地に国鉄駅が開業したのは1911年。隣接する大崎駅に遅れること10年だった。
いっぽう、東京市が敷設した市電・目黒線が、お隣の目黒駅前に達したのが1914年だった。目黒線の途中の清正公前(せいしょうこうまえ)から分岐するのが五反田線で、1927年に白金猿町まで開通したものの、約1800m先の五反田駅前まで全通したのは、五年後の1933年になってしまった。
市電全通時に五反田線を走ったのは4系統(五反田駅前~飯倉一丁目~築地)の一系統だった。戦後の系統改編でも4の系統番号を堅持して、五反田駅前~古川橋~金杉橋~銀座二丁目の路線を廃止される1967年12月まで走り続けた。
■現在の東口「桜田通り(国道1号線)」の景観
写真は国鉄(現JR)五反田駅を背景に五反田駅前停留所を発車した4系統銀座二丁目行きの都電だ。五反田駅前は池袋駅前のような二線・二面の乗降所が設置されていた。4系統は目黒車庫に配置された1000、1100型の戦前生まれの都電が主力で、稀に3000、7000型も充当されることがあった。
54年が経過しているが、街並みの変化はどうだろうか。JR五反田駅東口に当たるこの一帯は、付近のビルこそ変わっているものの、思いのほか景色は変わっていないと感じる読者も多いのではないだろうか。
この停留所は1962年11月、五反田駅前東口の駅前広場整備と桜田通り道路拡張のため、旧線を約100m短縮して移設された。旧線は画面手前を右端から左端方向に走っており、五反田駅東口改札口と旧白木屋デパート五反田店(現ショッピングセンター「レミイ五反田」)の近くまで路線を伸ばしていた。
■都電廃止後に都営地下鉄が開業
五反田駅は都電廃止後、山手線の内側に連絡する鉄道網を失ってしまった。廃止の翌年、1968年11月に念願の都営地下鉄1号線(現浅草線/泉岳寺~西馬込)が開業。1年のブランクで五反田から銀座方面に行く鉄道網が戻ってきた。
1970年代に入ると、西口方面の再開発が開始され、西五反田の旧星製薬工場跡地に「東京卸売りセンター・TOCビル」が開所する。竣工当時は地下3階・地上13階の建造物で、日本最大の容積率と謳われた複合施設だった。これにより、国鉄(現JR)五反田駅の利用者数が8割増になった、というエピソードがあるくらい西口方面が繁華な街へ発展していった。