五反田駅前で並んだ目黒車庫の配置1000型。共に戦前生れの古豪で、ディーテールの違いを観察することができる(撮影/諸河久:1965年10月17日)
五反田駅前で並んだ目黒車庫の配置1000型。共に戦前生れの古豪で、ディーテールの違いを観察することができる(撮影/諸河久:1965年10月17日)

■都電1000型の形態を観察する

 別カットは五反田駅前で発車待ちの1000型が並ぶシーンだ。この停留所は拡幅された桜田通りの真ん中にあるため、左右に設置されたガードレールによって都電利用者の安全が守られている。筆者はクルマの流れを気にせずに、じっくり都電を撮影することができた。

 1000型は1933年から1935年に木造車の台車や電気機器を流用。新たに鋼製の車体を新造し、合計130両が登場した。1045と1047は共に1934年/日本車輌製で、この二両の形態を観察してみよう。

 双方とも登場時は高床式のKB系ブリル台車を履いて、かなり腰高の外観だった。晩年はご覧のような低床式のD10台車に振り返えられたが、乗り心地はブリルに敵わなかった。

 正面下部には路面電車には必須の排障器(ストライカー)が装着されている。1045は3本、1047は4本と仕様が異なる。戦前までは、救助網(フェンダー)を設置することが義務付けられており、1000型はロックフェンダーという方式の救助網を備えていた。戦後になって、この規制が緩和されると簡便な排障器に切り替えている。
 
 写真では判別しにくいが、屋根に視線を移すと通風器が1045は8個、1047は4個設置されている。戦災復旧車の1062のように通風器を設置しない車両もあった。

■ビューゲル集電の普及

 戦前はトロリーポールを集電装置に使用していた。戦後になると、1949年に横浜市電で始まったビューゲル集電化が全国に波及する。都電も同年に荒川線で試用後、全線にビューゲル集電が普及した。左の1045は明石製作所製、右の1047は泰平電機製のビューゲルを装備している。消耗品である上部の弓の部分が使い回わされるため、明石+泰平、泰平+明石といった混合タイプのビューゲルも散見された。

五反田駅前を後に、桜田通りを走る5系統古川橋行き。本来は4系統のはずだが、なぜか「5系統」の系統板を掲示していた。背景は五反田駅で、1962年に拡幅された桜田通りの状況が識別できる。五反田駅前~白金猿町(撮影/諸河久:1965年10月17日)
五反田駅前を後に、桜田通りを走る5系統古川橋行き。本来は4系統のはずだが、なぜか「5系統」の系統板を掲示していた。背景は五反田駅で、1962年に拡幅された桜田通りの状況が識別できる。五反田駅前~白金猿町(撮影/諸河久:1965年10月17日)

 五反田駅前を発着する五反田線には、前述のように4系統のみが運行されている。当日撮影したネガを観察すると、5系統古川橋行きを写しているコマがあることに気付き、このカットも掲載した。54年も昔のことで、その事由を当局に問い合わせることもできず、筆者の推察でこの謎を解いてみた。

 この都電は古川橋で折り返して目黒駅前に向い、目黒車庫に入庫する運用だと推察する。古川橋の折り返し間合いで、前後二枚の系統版を4系統から5系統に裏返す作業が難渋するのを嫌ったのが、5系統を掲示して五反田駅前を発車した大きな理由であろう。

 もう一つは、5系統の系統板を掲示しているものの、五反田駅前から白金猿町、二本榎と五反田線の二つの停留所を過ぎてしまえば、次の清正公前で目黒駅前を発した「本物」の5系統と合流する。ここから先は5系統古川橋行きの通常運行に戻る訳だ。前述の4系統銀座二丁目行きが走る五反田線の停留所で、方向幕の行き先を確認せずに乗車してくる古川橋以遠に行く乗客に、5系統を掲示することによって注意を喚起し、誤乗を防止する効果があった、という推論も考えられよう。

■撮影:1965年10月17日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。

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