2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、まるでロンドンの街並みのようなオフィスビル街だった、丸の内「一丁倫敦(いっちょうろんどん)」を走る都電だ。
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一丁倫敦。
たとえ東京で暮らしていても、若い世代の読者にはピンとこないかもしれない。かつて、東京・丸の内にそう呼ばれる一帯があったのだ。
江戸時代、丸の内の一帯は譜代・親藩の諸大名屋敷が軒を連ねていた。明治維新後、主を失った屋敷跡が放置され、狐狸が棲むともいわれた。この土地を三菱財閥の祖「岩崎弥太郎」が買い取ったため「三菱ヶ原」の異名があった。
1880年代に入って、三菱ヶ原に洋風貸事務所を建築する構想が結実する。三菱の建築顧問であった英国人ジョサイア・コンドルが、クイーンアン様式の外観を基調とした煉瓦(れんが)造りの建築物を設計。建設工事はコンドルの弟子の曽禰達蔵が担当して1894年に竣工。最初の建物は「第1号館」と命名された。(1918年「東9号館」に改称され、後年「三菱東9号館」、「三菱旧1号館」とも呼ばれた)
第1号館の竣工を嚆矢(こうし)として、隣接する西側に第2号館、鍛冶橋通りの反対側には第3号館、その西側の馬場先門南角地には「日本商工会議所」と、同じ意匠・軒高の赤煉瓦ビルが続々と竣工した。1910年代の丸の内界隈は、英国調・赤煉瓦ビル街に変貌し、一帯を称して「一丁倫敦」と呼ぶようになった。
■赤煉瓦造りの美しい佇まい
写真に戻ろう。東京駅の南側に位置する、八丁堀線・鍛冶橋停留所を発車した5系統目黒駅前行きの都電は、埋め立てられた外濠に架かる鍛冶橋を渡り、国鉄東海道本線(現JR)のガードをくぐると都庁前停留所に到着する。左手には東京都庁舎(現在は新宿副都心に移転し、跡地は東京国際フォーラムとなった)、右手には直角方向に丸ノ内線の都庁前停留所があり、28系統錦糸町駅前行きや31系統三ノ輪橋行きの都電が折り返す。
都庁前を後にして皇居東側の馬場先門に向かうと、右側の車窓に赤煉瓦造りの洋風建築が目に入ってくる。これが日本で最初のオフィスビルとなった前述の「三菱第1号館」だ。