新しい職場では、新卒入庁組との11年の経験差をどうやって埋めるかが課題だった。和田は調査研究に力を入れることにし、最初に取り組んだのが秋田空港の霧の研究だった。
秋田空港は霧が便に影響を与えることが多い。原因はすぐ近くを流れる雄物川にありそうだが、はっきりしたことはわかっていない。和田は時間を見つけては川岸に通い、水温を2年間測り続けた。結果、気温に比べて川の温度が5度以上高く、風が少ない時に空港周辺に霧が出やすいことを突き止めた。当時の上司、元秋田地方気象台長の山川弘(79)が言う。
「国鉄から来た人が霧の研究をしていると聞き、注目していた。気象台の空港関係の人で霧を調査する人は多いが、みな観測データ重視。川霧に注目し、地道に現場で測定を続けた人はいなかった」
気象台でもすぐに頭角を現した和田だが、福島地方気象台で防災業務課長だった11年に東日本大震災が起きてからは、苦難も経験することになる。原発事故直後には無人観測施設の被害状況を確かめるため放射線量の高い浪江町へ入り被曝。
●定年後は防災気象官として テレビや講演に飛び回る
翌年、仙台管区気象台で危機管理調整官になると、東日本大震災を受けての気象台の事業継続計画(BCP)作成を命じられ、あまりの多忙さに「精神的、肉体的に倒れる寸前まで」追い詰められた。友人の医師、杉山公利(61)はこのときの和田の様子をこう話す。
「相当な切迫感に駆られていた。それで和田の宿舎に泊まり込んでじっくりと話を聞いたうえで、『できることはできるが、できないことはどうやってもできないんだ』とアドバイスをしました」
和田はこれで気が楽になり、何とか持ちこたえることができた。
昨年3月で定年を迎え、防災気象官として再任用となった現在も和田の忙しさは相変わらずだ。
防災関係機関との調整や後任台長の小池二郎を連れての首長訪問などの業務の傍ら、地元テレビ局の報道番組枠で放送される気象コーナーに毎月生出演。学校、自主防災組織などからの講演依頼も多く、休日返上で各地を飛び回る。和田を講師に据えて気象を学ぶ「気象・防災カフェ」を定期的に開いている「あきた憩い・まなびのプロジェクト」代表の新野のりこは、「防災や気象のことを一般の人に分かりやすく話してもらえないかと頼んだところ、即答で引き受けてくれた」。
和田が多忙な中でこうした依頼を引き受けるのは、多くの人に防災・減災意識を高めてもらいたい一心からだ。災害に避難勧告や指示が出ても家に留まり、命を落とす事例が後を絶たない。朝日新聞が昨年、特別警報を発表した自治体を対象にアンケートをしたところ、実際に避難所へ逃げた割合はわずか2.6%。18年7月の西日本豪雨でもホットラインは使われたが、それでも逃げ遅れるなどした住民225人の命が失われた。内閣府の中央防災会議がまとめた避難対策の報告書には「行政主導の対策には限界がある。『自らの命は自らが守る』ことが必要」とする異例の提言が載り、住民側の意識改革を訴えた。
気象台の現場でそれを痛感する和田だからこそ、講演では大雨や落雷などから身を守るために必要な知識や避難を決断する勇気を訴える。
和田にいまの心境を尋ねると「まだ、やり切った感じはしない」。気象災害で失われる命が一人でも減るよう、しばらくは啓発活動を続ける覚悟だ。(文中敬称略)