羽後町長の安藤豊は、和田が秋田でホットラインを構築する際に背中を押した一人(撮影/工藤隆太郎)
羽後町長の安藤豊は、和田が秋田でホットラインを構築する際に背中を押した一人(撮影/工藤隆太郎)

 和田のもう一つすごいところは、自然災害の現場を見ることに徹していることだ。東北地方で初めての大雨特別警報が出た15年9月の「関東・東北豪雨」の際。仙台管区気象台で気象防災情報調整官を務めていた和田は、雨があがった当日に宮城県内の被災地へ向かう。持参したビデオカメラに決壊した堤防の様子を収め、被災した住民へのインタビューも自ら行った。そこから減災への課題をつかみ、撮影した迫力ある映像はその後の講演などにも使われている。

●秋田豪雨による緊急事態 寝ずに首長と連絡を取る

 ホットラインの訓練を実施したちょうど1週間後の7月22日、東北地方では停滞中の前線に南から湿った暖かい空気が入り込み、大気の状態が非常に不安定になっていた。

「このまま行けば記録的な大雨になるかもしれない」。早朝に目を覚ました和田はそう思いつつ、ホットラインを使うかどうか迷っていた。目安は、重大な災害が起こる恐れが著しく大きい「特別警報」を出すような非常事態。だが、この時点ではまだそれより低い「土砂災害警戒情報」を出そうかどうかという段階だった。

 その迷いを振り切ったのが、午前9時9分に受けた北秋田市の津谷からの電話だった。

 津谷は単刀直入に尋ねた。「こちらは非常に激しい雨が降っている。今後の見通しはどうか」

 和田は「非常に激しい雨を降らせる雨雲が県北部に停滞している。もうしばらくは厳重な警戒が必要です」と答えた。

 短いやりとりだったが、この会話が和田の背中を押した。

「北秋田市で尋常でない雨が降っていることが分かり、緊迫感が伝わってきた。この感じなら、ほかの首長も今後の雨の状況を気にしているはず。いま、ホットラインを使おう」

 決めた後は速かった。危険が迫っていると思われるすべての市町の首長へ、切迫度が高いと思われる順に電話をかけた。

 和田の記録では、9時11分の大館市長の福原淳嗣を皮切りに、19時25分の大仙市長の老松博行まで8人にかけ続けた。

 電話に出た首長には、手短に雨雲の状況と厳重な警戒が必要なことを伝えた。秋田市長の穂積志は、電話を受けたとき公務でアメリカのアラスカ州にいた。留守番メッセージに気が付いてすぐに折り返し電話をかけると、和田から「秋田で50年に一度に相当する大雨が降りつつある」との説明を受けた。すぐさま日本にいる副市長に指示を出し、およそ1時間後に7399世帯に避難勧告を出した。

 和田はこの日、気象データを睨みながら気象台で寝ずの一夜を過ごす。そして翌23日、危険が迫っていると判断した仙北市長の門脇光浩には早朝4時25分に電話を入れ、「住民避難の発令をご検討ください」と踏み込んだ説明をした。7時台になり、美郷町長の松田知己(7時45分)へかけたところで、ようやく雨の終わりが見えてきた。2日間で使ったホットラインは全部で7市5町。これ以外に、先方から和田の携帯電話にかかってきた問い合わせは4市2町あった。

 老松はこう話す。「和田台長からのホットラインを緊急事態と受け止めた。あれでスイッチが入り、早めに避難勧告を出すことができた。災害時にはいろいろな情報が錯綜するため、確固たる情報を得るためにもホットラインは貴重な手段だ」

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ホットラインが功を奏した