2020年のオリンピックに向けて、東京は変化を続けている。同じく、前回の1964年の東京五輪でも街は大きく変貌し、世界が視線を注ぐTOKYOへと移り変わった。その1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は都心のオアシス、日比谷公園付近。都電通りに面した名建築「帝国ホテル本館(ライト館)」にスポットを当てる。
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東京市街鉄道によって、日比谷通りに三田線が敷設されたのは1904年だった。三田線は青山線や新宿線と並ぶ街鉄のドル箱路線で、市営になった大正期には三田~日比谷~上野~雷門で運転された。戦前は2系統として三田~小川町~浅草駅を結んでいた。戦後は37系統になり、三田を発して日比谷公園~小川町~淡路町~旅籠町~上野公園~駒込千駄木町に至る9433mの路線で運転された。三田線の日比谷公園~内幸町には、この37系統のほか2系統(三田~曙町)、5系統(目黒駅前~永代橋)、35系統(巣鴨駅前~田村町一丁目)も運転され、頻繁に都電の姿を見ることができた。
日比谷通りは道幅が広く、自動車の流れが前後の信号でうまく途切れるため、都電撮影には好都合の場所であった。ファインダーに帝国ホテルの北翼客室と玄関ホールの一部を取り込み、都電が来るのを待った。南翼客室も入れたかったが、ワイドレンズが未普及だった時代のこと、標準レンズではこれで精一杯のフレーミングだった。
日比谷公園から都電に乗車して田村町方面に向うと、車窓右側には日比谷公園の杜と日比谷公会堂。左側には1962年に竣工した「日生劇場」が見えてくる。その隣が1923年に竣工したF・L・ライト設計の「ライト館」と呼ばれた二代目帝国ホテル本館だ。スクラッチタイルあるいはスダレレンガと呼ばれる独特の煉瓦で装われた名建築だ。その隣が大和生命ビル(現・NBF日比谷ビル)で、ここが鹿鳴館時代のシンボルであった「鹿鳴館」の跡地だ。
明治中期に不平等条約を改正したい目論見で、時の外務卿・井上馨がすすめた鹿鳴館外交のシンボル「鹿鳴館」が1883年日比谷に開館。この鹿鳴館と密接な関連を持つ外国人向け大型ホテルとして1890年に「帝国ホテル」(初代・木骨煉瓦造)が開業した。一日も早く欧米列強に肩を並べたいという明治政府の願望の産物であった。当時の市内交通は人力車や馬車の時代で、路面電車の開業まで10数年の歳月が必要だった。
写真の二代目帝国ホテル本館は米国人の著名な建築家「フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)」を招聘して設計契約を結んだ。レンガ型枠鉄筋コンクリート造による鳥が翼を広げたような巨大なデザインで、客室は270を数えた。1919年に着工したが、ライトは建築に使用する部材から調度品の選定まで徹底した管理体制を強いたため、建築予算は膨大に膨れあがった。それでも設計理念を押し通すライトは経営陣と衝突し、ホテルの完成を見ることなく離日している。その後はライトの弟子の指揮により、四年後の1923年8月に完成した。
落成記念披露宴が予定された9月1日に「関東大震災」が東京を襲った。「絶対安全なる耐火構造」というキャッチフレーズどおり、ガラス数枚破損という地震被害と延焼にも耐えた帝国ホテル本館は、ライトの名声を不動のものとした。