さて現実世界へ戻った「私」(つまり「私」の影)が、街の記憶を携えたまま、福島県の山あいの町の私設図書館で館長として働く話が第二部となっている。これが本書の3分の2を占める長さである。おしまいの第三部はわずか55ページしかないので、実質的に本書の中心をなしている。ここでも私設図書館といえば『海辺のカフカ』が想起されるし、庭に古い井戸のある家(『ねじまき鳥クロニクル』)も出てくる。

 この第二部で「私」の助言者となる前館長がとても魅力的だ。さらにイエロー・サブマリンの絵柄のヨットパーカーを着た少年が、決定的に重要な役割を果たす。これまでこの街の物語は、一貫して語り手の心の深層の閉ざされた街だったが、本書では別の人物に街が明け渡され継承されるという新たな展開を迎える。自分の意思で壁を抜けられるようになるのだ。これは大きな変化、というより明瞭な成長である。

 本書の執筆期間はちょうどコロナ禍だった。疫病に蟄居を余儀なくされ、アメリカとロシアで政治的な分断が歯止めなく進行する時代を背景に、本書は心の壁を抜け出し、他者とつながる勇気を手渡そうとしている。同時に過去の自作の記憶の呪縛からようやく解放され、次の段階へ進もうとする著者の衰えぬ意欲が窺える。

週刊朝日  2023年5月19日号

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