吉川英治は7年に及ぶ『新・平家物語』の最終回と同じ号で、読者にお別れの挨拶をしている。

<今日までいろんな意味で、この仕事を見まもって来てくだすった読者諸兄姉とは、何か、迂作をとおして、わたくしもこの七年をともにして来たような感慨にたえません。/(略)読者との惜別の思いが、わたくしをくるんで、このお別れの辞を書くのさえ、しどろもどろにさせております>

 連載中の歳月を読者と共有したという手ごたえが、作者には確かにある。読者のほうもそうだ。連載中に読者から届いた手紙は、吉川英治の手元にあるだけでも数千通に達したという。

『ブラック・アングル』の最終回にも、読者への挨拶があった。

<長年にわたるご愛毒心より感謝申しあげます>

「愛読」ならぬ「愛毒」と来るのが山藤さんの面目躍如だが、ここではむしろ「愛」にフォーカスしよう。

 連載終了時の筆者や編集部による「ご愛読に感謝いたします」という挨拶はおなじみである。しかし、これが単発記事や読み切り小説に用いられることはない。モノや店の「愛用」「ご愛顧」が、イチゲンさんでは成立しないのと同じである。

「愛読」の「愛」を育むものは、連載作品と読者が共有した時間なのだ。それも、激しく燃え上がる愛ではなく、むしろ穏やかで、日常に溶け込んだ、細くて長い愛──さらに連載には「次号を楽しみに待つ」という、ささやかな未来を共有する楽しみだってあるのだ。

 だからこそ、連載が終わると○○ロスになるし、再会すると懐かしい。

■巻末に置かれた毒と笑い

 たとえば、今年還暦の僕は、1993年に連載が始まったナンシー関の『小耳にはさもう』を、30代の頃、毎週楽しみにしていた(立ち読みが多くてごめんなさい)。2002年に氏が急逝したあとはしばらく、『小耳にはさもう』が載っていたはずのページを開くたびに、寂しさに包まれたものだった。

 そしていま、単行本や文庫にまとめられたコラムを読むと、懐かしくてしかたない。その思いが空回りして、没後にナンシー関を知った若い人に「オレは雑誌連載のときから読んでるんだ」などとマウントを取って、嫌われてしまうのである。

暮らしとモノ班 for promotion
大谷翔平選手の好感度の高さに企業もメロメロ!どんな企業と契約している?
次のページ