初夏の緑に誘われて公園にお弁当を持ってでかけるピクニックが楽しい季節です。街中で働いているとなかなかひと息つける癒しの場所がない、という方はちょっと周りを見まわしてみませんか? 忙しく行き交う人波の中にふと目をやると細い道がのびている路地を発見!という経験があるのではないでしょうか。
小さなお店が並んでいて、夕方になれば灯りがともり、人のざわめきが聞こえてきそうな細い道。吉祥寺にあるハモニカ横丁は懐かしい昔の雰囲気を残しながら若者を取り込む新しい文化を生み出しているようですよ。呼び名はハーモニカ横丁、ハモニカ横丁どっち? と迷います。それぞれみなさんの思い入れがあるようですが、最近はハモニカ横丁が主流のようです。

住みたい街アンケートの上位、吉祥寺!

新宿、渋谷から電車にのれば15分から20分で着く吉祥寺。活気のある駅ビル、食料品からブランドものまで揃う百貨店に安さが売りの電気製品の量販店、広がる井の頭公園の自然。5分も歩くと静かな住宅街に入り込む安らぎ。吉祥寺は徒歩圏内に都会の便利さと武蔵野の自然、穏やかな生活環境をもっている不思議なところ。確かに住みたくなると選ばれるのも、納得する街のようです。

日常の中に非日常がみえるハモニカ横丁

ハモニカ横丁は駅に面した通りから南北に5本の路地、それを横切るように通路が一本抜けて、肩寄せ合うように店が集まる場所。通りを歩いていても、商店のすき間にある路地を見過ごして通り過ぎてしまえば、中にこんなにたくさんの店が広がっていることさえ気づかない、という人もいるんです。一歩足を踏み入れると、奥へ奥へと歩かずにはいられなくなる、何ともワクワクしてくるのが吉祥寺のハモニカ横丁。
三歩行けばもうそこは隣の店という狭い間口の並びが、ハーモニカの吹き口に似ていると、吉祥寺に住んでいた文芸評論家の亀井勝一郎氏がハモニカ横丁とよんだことが始まりのようです。
昼前ともなればすれ違うのがやっとの軒を連ねた路地の店が開き始めます。立ち上る美味しい匂いはさまざまです。老舗の餃子店あり、生パスタやピザのイタリアン、お寿司にどんぶりもの、その間には魚やに花屋、用品屋、和菓子屋がすき間なく続き、さらにビュッフェの大皿も並んでいます。店の作りは煙でいぶされたような壁に、木の丸椅子が見えるかと思えば、真新しい白木のカウンターをしつらえた店や、雑多さを装った中に演出される粋がありと、競う個性がつたわります。これが人を引きこんでしまう縁日のような賑わいを作り出す、エネルギーの源のようですよ。
このエネルギーはいったいどこから来たのでしょうか? それはこの街の歴史と大いに関係がありました。

吉祥寺のルーツとは?

ここに人が住みはじめたのは古く江戸時代。明暦3年(1657)江戸の大半を焼いたという、明暦の大火によって焼け出された人々が、幕府の斡旋で雑木林と原っぱのこの武蔵の地に移住してきたのが始まりということです。
この人々は本郷にあった吉祥寺門前に住んでいたということで、新たな土地に自分たち故郷の寺、吉祥寺の名前をつけたということです。
吉祥寺に人口が増えたのは大正12年(1923)の関東大震災で被災した人々が引っ越してきたことでした。それにともなって成蹊学園といった学校ができたことも商店が建ち並ぶようになったきっかけのようです。
第二次世界大戦では、広い土地を求めた軍需工場の進出により工業都市としての発展をしますが、空爆の標的となり空襲で大きな打撃をうけます。戦後は交通の便がよく、都心から近いということで移住する人が増え、現在の発展につながりました。
どうやら吉祥寺は、都心が災害にみまわれる度に人々を受け入れることで、大きく発展してきた郊外の街といえるようですね。

ハモニカ横丁のルーツは戦後のヤミ市⁉

ヤミ市の始まりは、戦争で負けた日本の深刻な食糧不足でした。お米は政府から支給されましたが、それだけでは生きていくにはとても足りませんでした。また配給の遅れもあり、人々は非合法で食べ物や日用品を手に入れるしかなかったのです。それが、各地にできたいわゆるヤミ市です。大勢の人が食べ物から着るもの何でも求めて集まりました。売る人も買う人も、みな生きるために必死だったにちがいありません。ここ吉祥寺もそんなヤミ市だったようです。その中から今のような商店の集まりとして、このハモニカ横丁ができるまでには、多くの人たちの知恵と話し合いがあったことでしょう。
ブランドを売る百貨店があっても、おしゃれできれいな店が並んでも、時代と共に進化しながら変わらない懐かしさを作り出していくこの横丁の魅力は、今を生きる人々の心にいつの時代も響くのではないでしょうか。
よかったら訪れてみませんか? 吉祥寺駅前、ハモニカ横丁に。
参考:
『吉祥寺「ハモニカ横丁」物語』 井上健一郎
『盛り場はヤミ市から生まれた・増補版』 橋本健二/初田香成 編著