私たちは当時、円満な家庭生活を送り、特に不安や苦悩を感じていたわけではなかったが、現代の生活の中で認識する重圧や困難を列挙したー仕事の最終期限、長旅、飛行機による移動のストレス、金銭的誘惑、死の恐怖、狂気の引き金になりかねない精神的な不安……。
ロジャーは、そういったさまざまな要素を念頭に置き、歌詞を書き表した。
それは、従来のアルバムのどちらかと言えば断片的なアプローチに比べて、かなり建設的な取り組み方のように思われた。私たちはそれまで、閃くというよりも考えあぐねて作っていたこともあった。
だがこのアルバムでは、メンバーがそれぞれの意図や願望について活発に意見交換を行い、意気込みを見せた。
私たちは、ロジャーの独創的な歌詞を用いて、リハーサル・スタジオで、さらにはレコーディング・セッションを通して、曲を徐々に発展させていった。
ロジャーはその過程で、曲や歌詞のギャップに気づき、それらを補完することができた。
1968年にシド(・バレット)がバンドを去るとすぐに、ロジャーが、歌詞の大半を書くという義務を負った。デイヴィッド(・ギルモア)やリック(リチャード・ライト)はまだ、たまに書く程度だった。
リックがかつて、「歌詞が曲のように出てくれば、僕たちは他にすることがなく、かなり多作になるだろう」と語っている。
『ザ・ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン』では、ロジャーが作詞をすべて手掛けた。彼は独自の言葉で、重要なアルバムのコンセプトをきわめて明確に表現した。彼自身は後に、“高校2年生レヴェルの代物”と語り、謙遜することがあったものの、それによって、傑出したコンセプト・アルバムが生まれた。
私たちは初めて、アルバムのジャケットに掲載するべき歌詞と考え、全文をプリントした。
バンドは『ダーク・サイド』の演奏可能な初期ヴァージョンを、数週間のうちに作り上げた。また、初演時にはすでに『ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン、ア・ピース・フォー・アソーティッド・ルナティックス』というタイトルをつけていた。ただし、このタイトルと『エクリプス』の間で何度も思い悩むことにはなった。
私たちは1972年2月中旬に、ノース・ロンドンのレインボウ・シアターで4夜連続公演を行い、組曲を初めてステージで披露した。
Inside Out: A Personal History Of Pink Floyd / New Edition
By Nick Mason
訳:中山啓子
[次回5/29(月)更新予定]