私ですか? 年と共にだいぶ薄くなってきました。若い頃はそれなりにあったなあ。人の活躍を目にして羨んだり妬んだり。そんなこと思ってウジウジしているくらいなら練習しろよ、自分を磨け!と、当時(20代)の自分に説教したい(今頃遅いわ、あんた!)でも、羨望や嫉妬は確かに「負の感情」ですが、正に向かわせることもできる。とんでもなくすごいピアノ聴いてぶっ飛んで、なにくそ、今にみていろおれだって的な感覚はずっといつまでも持ち続けていたいなあ。ほめちぎ第56回でも言っていますが、「今にみていろ」の溢れる悔しい気持ちが、いつもポジティブな創作エネルギーに向かうといい。
ところが、私の「知の羅針盤」佐藤優さんの新刊『嫉妬と自己愛』(中公新書ラクレ)を読んで驚いた。もはや嫉妬も自己愛も超越した「コンビニ人間」なる人種が出現したと。この『コンビニ人間』は昨年の芥川賞を受賞した村田沙耶香さんの小説ですが、この小説の主人公が“負の感情のセンサーシステム”としての嫉妬も自己愛もまったく働かない“生きづらい世の中を生きぬく一つの完成形”であると佐藤さんは指摘する。自己防衛が究極までいくと、“保身のための自己愛”ですら消えてしまうなんて。ねじれてよじれて彷徨い続ける人の心は、最後にいったいどこに行き着くのだろう? きっと行き着く先なんてないのだろうなあ。ため息。
また引用の連続になるといけないので、ササッとこの本を紹介しますが、「嫉妬」という単語は女偏でできていますが、女の嫉妬なんてめじゃない、男の嫉妬の幼児退行型のとんでもない一例がP219に。苦笑を通り越して、とにかくこのエピソードは寒い。ぶるぶる。P179からの「土俵に上がろうとしない」人間たち、もピンとくる。「自信はないけど、馬鹿にされるのは嫌だ」という矛盾を含んだ感情が「初めから土俵に上がらないでいよう」という態度を生む。「やってみなきゃわからないよ。やってみようよ!」と、最初っから「できなーい」と明るく言い放つ子どもたちを鼓舞することがたまにあるのだが、土俵に上がるのが楽しいことだって知ったから、ここに歌いに来ているんだよね、みんな。そこんとこよろしく! とにかく、土俵=ステージに毎夜上がらなきゃ始まらない我々ミュージシャンには考えられない話し。
土俵で思いだしたのが、ピアノコンクールという土俵に上がるピアニストたちを描いた『蜜蜂と遠雷』(恩田陸・著/幻冬舎・刊)それぞれのコンテスタントのキャラにはまって楽しく読んだのだが、この本といい、世界一のジャズプレイヤーを目指す若者を描いた青春ジャズ成長譚『BLUE GIANT』(石塚真一・著/小学館・刊)といい、見事に「羨望と嫉妬と自己愛」については避けて書かれている。確かに、もうその“三種の神器”(ふざけて言ってます)で語り綴っていくことは、古いスタイルだしウケないのだろうけど、でも出てくる人がみんな「健康的でポジティブな考え方をする人」というのも、どうなんだろう。「音楽は戦いではないと知っている上で、あえて戦わせる」というテーマを選んだ以上、“三種の神器”をアクセントとして、わずかにでもセンスよく織りこんでいく、という選択肢はないのかなあ? と、ふと思ってしまう。で、その対極にあるのが、出てくる人みんなが不健康でネガティブな、評判のおバカ映画『セッション』。これ、怖かったなあ。ホラー映画として見ると秀逸な出来。“三種の神器”のまぶし具合も上手。
で、話しどんどんとんで、スタートして40年はたつ『ガラスの仮面』(美内すずえ・著/白泉社・刊)夢中になって読んだのが早20年前くらいなので、今どんな展開になっているのかわからないのですが(最終回はできあがっているらしい。ただ、まだそこに行きつかないとのこと)“三種の神器”に“あこがれ”という、これまた人の旨味成分濃厚な天然感情を上手にトッピングした名作だったなあ(※過去形ではない現在形です!)
脱線上等、でいく「ほめちぎ」。皮肉な言い方にきこえてしまうことが多々あると思われますが、どうかお許しを。すべての創作をポジティブに好意的に捉えたいという八方美人的な視点が露骨に根底にあります。私には。あっその言い方、それもシニカル……でも『セッション』の監督デイミアン・チャゼルの最新作『ラ・ラ・ランド』はミュージカル映画だということだし、あたしゃあ必ず見ますよ![次回3/20(月)更新予定]