原爆の犠牲者を悼み、原爆ドーム前の元安川に灯籠(とうろう)が流された。今年で戦後80年になる=2025年8月6日午後7時46分、広島市中区
原爆の犠牲者を悼み、原爆ドーム前の元安川に灯籠(とうろう)が流された。今年で戦後80年になる=2025年8月6日午後7時46分、広島市中区
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 作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は戦後80年の夏に考えた、私たちが向き合ってこなかったことについて。

【写真】戦後80年の夏、平和への祈りは各地でささげられた

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 敗戦後80年夏。“あの戦争”の記憶のある人、“あの戦争”に行った人の話を聞く機会は、あまりもう残されていないことを意識させられる。私の両親は戦後生まれで、祖父二人はどちらも戦地に行くことがなかった。戦争の話を唯一私にしてくれた身内は、祖母だった。

 戦争が激しくなる最中、まだ10代だった祖母の記憶は当時の若い女のそれとして鮮明だった。東京大空襲の夜の空は、それまでの人生で見たことのないくらい明るく、思わず立ち止まり空を見上げていたこと。隣組の男たちの威圧感は米兵よりも怖いと思っていたこと。上野の山に積み上げられた遺体の山は、全て「丸太」のように手足が伸ばされ積みかさねられていたこと。祖母が何度も語ってくれた戦争の景色は、私の中にも色のついた映像のように定着している。

 でも何より祖母の話で衝撃を受けたのは、「男たちの戦後」の話だった。敗戦から二十数年後、40代になり旅館を経営することになった祖母は、男たちの宴会の場によく顔を出していた。そのなかには、戦友会も少なくなかったという。戦争を生き抜いた男たちが座敷で芸者たちに酌をさせながら交わす会話は、決して家族には語れないようなことだった。どのように人を殺したか。どのように中国人を殺したか。

「その男の人たちは、どんな調子でその話をしていたの?」

 一度祖母にそう聞いたことがある。祖母は即答した。

「浴びるほど飲んで、笑っていたよ」

 笑うしかない、怖いから笑うしかない、忘れたいのに忘れられないから笑うしかない、そういうことなのだろうか。それはどういう「笑い」だったのだろうか。あまりの答えに私はそれ以上何も言えなくなってしまったし、祖母もそれ以上語らなかったけれど、私が聞いたはずもない「男たちの笑い」は、それから耳の奥に記憶として存在してしまっているような、そんな感触が拭えない。

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