
出場校の監督会議に遭遇「お話を聞いてみたい」
高校野球にハマってからは、研究者らしく過去にさかのぼり、多数の関連書籍や資料を読みこんだ。「歴史に残る名勝負」はほぼ把握し、再放送の機会があれば映像も確認する。
最も感動したのが1996年決勝の「松山商─熊本工」。延長十回裏、熊本工1死満塁、ライトへの大きなフライを捕球した松山商の選手が約80メートル先の本塁へ送球。三塁走者を間一髪で刺した「奇跡のバックホーム」だ。
「あれだけの距離をあの雰囲気の中で投げられたのはすごいですね」
そして2009年決勝の「日本文理─中京大中京」で、大差をつけられた日本文理が九回2死走者なしから粘って5点を挙げたものの力尽きた試合。「日本文理の夏はまだ終わらない!」とアナウンサーが叫んだ中継で知られる。
「中京大中京のエース・堂林(翔太)選手らと日本文理打線との攻防は見事でした」
監督の名前と顔も覚えている。
「去年の夏、甲子園球場に行ったときのことです。おそらく監督さんの会議後で、智弁和歌山の中谷仁監督や報徳学園の大角健二監督たちが続々と出てこられまして。『ああ、お声がけしてお話を聞いてみたい』と思いました(笑)」
関心があるのはそれぞれの采配ぶり。例えば智弁和歌山の前監督、高嶋仁さんは野球部員を1学年10人ほどに絞り、少数精鋭で甲子園に進んできた。監督としての甲子園通算勝利数が歴代2位の名将で、いまは野球解説者として活躍している。
「こういうことを考えて選手を送り出している、などと話されるので、監督目線がわかって面白いんです」
彬子さまはいくつかの野球大会の始球式でマウンドに立つ。国学院大学の特別招聘教授に就任した縁で、国学院大も所属する東都大学リーグや、全国の主要な神社6チームが集まり毎年8月に開催される「東西神社人親善野球大会」などでも投げる。最初はとても苦労した。マウンドからホームベースまでの「18・44メートルがあんなに遠いなんて。あと2メートルが届かないんです」。
たくさんの試合を見てきて「こう投げたい」という思いはあっても、体力や筋力が伴わないもどかしさがある。そこで、親交のあった歌舞伎俳優の中村勘三郎さんの友人でもあった江川卓さんの教えを受けた。プロ野球のレジェンドの指導は優しく、かつ具体的だった。
「『放物線を描くように投げて、たぶん手前で落ちると思うけど、フォークボールを投げていると考えれば、そこでみんなバットを振るからいいんですよ』とおっしゃっていただき、気持ちが少し楽になりました 」
大会前になると、警衛にあたる側衛官や警察官たちと練習することも。昨年5月には、甲子園球場100周年の取材で無人のグラウンドのマウンドに立ち、球を投げた。その姿はかなり板についている。
「とても緊張しました。全国の野球少年たちが目指している場所に立たせていただいて、恐縮の極みです。選手たちは高校生なのに大観衆を背負うプレッシャーに耐えながら、あれだけのプレーを見せてくれる。すごいな、やはりここは聖地だなと」
彬子さまのユニホーム、背番号は「38」だ。学習院初等科のころからのあだ名「みや(宮)」に由来する。ちなみにお父さまの寬仁さまが使っていた背番号は「41383(ヨイミヤサン)」(=良い宮さま)である。寬仁さまが元気だったころには、宮家の関係者による親善ソフトボール大会が定期的に開かれ、学習院初等科の教職員、寬仁親王邸や皇宮警察などの職員たちが参加した。指導役は元巨人の土井正三さんだった。
「『あんな大会はもうない、本当にいい思い出です』と皆さま今もおっしゃいます。ソフトボールは野球とちょっと勝手が違いますけれど、またできたらいいですね」