当初は、テオとヨー夫妻による会計簿で日常の支出が記されていたが、テオの死後はヨーがゴッホの作品の売却について細かく記入。ゴッホ研究の貴重な資料となっている(撮影:写真映像部・東川哲也)
当初は、テオとヨー夫妻による会計簿で日常の支出が記されていたが、テオの死後はヨーがゴッホの作品の売却について細かく記入。ゴッホ研究の貴重な資料となっている(撮影:写真映像部・東川哲也)

「答えがない仕事なので、自分がやるべきこと、やりたいことを地道にやっていくしかない。何よりも、自分が自分のことを信じていなくてはいけないと思った。いつか誰かが見つけてくれると信じて頑張っていました」

 そのような経験をしたからこそ、ゴッホの人生は心に響くものがあったという。

 ゴッホは1853年にオランダで生まれた。仕事を転々としたのち、27歳の時にほぼ独学で絵を学び始めた。絵の道へ進むようにゴッホを説得したのは4歳年下の弟テオだ。テオは美術商となり、兄を金銭的・精神的に支え続けた。

 だが、ゴッホは37歳で世を去った。生前は絵がほとんど売れず、テオも兄の死から半年後に亡くなった。

母の応援が大きな力に

 ゴッホを世界的に有名にしたのはテオの妻、ヨーだ。展覧会を開いたり、ゴッホがテオに送った手紙を出版したりして義兄の名声を高めていった。

 オランダ・アムステルダムにあるファン・ゴッホ美術館は、ヨーの息子フィンセント・ウィレムが尽力して1973年に開館。今回の展覧会は、そのようにして家族が守り継いできたゴッホ家のコレクションに焦点を当てたものだ。

 音声ガイドでゴッホの手紙も朗読した松下さんは「家族や友人、周りの人たちの支えがなければ芸術は生まれないんだな、と感じました」と感慨深げに語る。

 松下さんにとっては、芸術家でもある母の応援が大きな力になったという。「俳優になることには不安もあったと思う。でも舞台をやるたびに見に来てくれたことが支えでしたし、分かち合う何かがあった気がします」

 最近、実家に帰るたびに「母が小さくなっている気がする」という。「あと何回会えるんだろう、と考えます。時間には限りがあるから、よく電話をしたり、時間がある時には帰ったりするようになりました」と話す。

 本展は大阪の後、東京と名古屋でも開催予定だ。

「大切な人と一緒にまわっていただけると、身の回りの大切な人をもっともっと大切にしたくなる展覧会になっていると思います」

(フリーランス記者・山本奈朱香)

「傘を持つ老人の後ろ姿が描かれたアントン・ファン・ラッパルト宛ての手紙」(1882年9月23日頃)(撮影:写真映像部・東川哲也)
「傘を持つ老人の後ろ姿が描かれたアントン・ファン・ラッパルト宛ての手紙」(1882年9月23日頃)(撮影:写真映像部・東川哲也)

AERA 2025年8月25日号より抜粋

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