親戚の結婚式で酔って軍隊の自慢話を始めたこともあった。周囲にたしなめられたことに腹を立て、大暴れしたという。「自分が輝いていた戦争体験が受け入れられなかったり、軽んじられたりするのが、我慢ならなかったんでしょう」。森倉はそう話す。ちょうどその頃は、日本社会が高度成長期にさしかかっていた時期だ。戦争での苦労話など、見向きもされなくなっていた。父は時代に取り残されていった。
「戦争ボケ」と呼ばれた父の最期
戦場での悲惨な経験も、酔った父の話の中に見え隠れすることがあった。南方での戦いは、圧倒的な物量の米軍に対し「話にならなかった」と言い、何とか飛行機を整備して操縦士を乗せて空に上げても、何倍もの数の米軍機に追い回され、撃ち落とされた、と吐露した。空襲されてジャングルに逃げ込んだ父の戦友は、猛烈な爆撃の後で全身バラバラになり、高い木にぶら下がっていた。下ろすのに苦労したんだと、語ったこともあった。
貧しい生活の中で、森倉は10歳の頃に養子に出された。中学卒業までその家庭で暮らしたが、虐げられる生活に耐えきれず逃げ帰ってきた。数年ぶりに再会した父は、酒が手放せなくなっていた。朝から晩まで酒を飲んで酔っ払い、何をするでもなく家で過ごし、ときには母に当たり散らした。戦前はスーツにサングラス姿で写真に収まるほどおしゃれだったのに、服装にも無頓着になっていた。「生きることに執着しなくなっている」と森倉は感じた。
「戦争ボケ」と言われたのは、この頃だ。人口数千の小さな町では、噂はすぐに広まる。「働きもせず、戦争の自慢話ばかりするアル中の男」への世間の目は冷たかった。「みじめだったね」と森倉は振り返る。進学を機に親元を離れ、関東に移り住んだ。
20歳の頃、父が亡くなったという知らせが届いた。いつものように酔っ払った状態でストーブに灯油を入れようとしてこぼし、火が燃え移ったらしい。酒浸りの生活で足腰も弱くなっており、逃げ切れなかったのだ。
戦争の自慢話、アルコール中毒、極貧生活、そして荒れた生活の末の不慮の死――。父にまつわる出来事は、森倉の中では断片的に存在していた。しかし、一連のものとして、理解しようとは思っていなかった。それは父が、森倉が大好きだった母を苦しめた存在でしかなかったからだ。