3歳の時、東京大空襲で両親と妹を亡くし孤児となった吉田由美子さん。「戦争は人災。二度とやってはいけない」と力を込める(撮影:江藤大作)
3歳の時、東京大空襲で両親と妹を亡くし孤児となった吉田由美子さん。「戦争は人災。二度とやってはいけない」と力を込める(撮影:江藤大作)

 その冬、ストレスから体が悲鳴を上げた。おなかを壊し下痢が続いた。ある晩、トイレに間に合わず、下着を汚した。激怒した伯母は、吉田さんを雪の積もる庭に裸足で引きずり出し、凍るように冷たい水を何杯もかけた。寒さと冷たさで、体の震えが止まらなかった。その頃から、吉田さんの顔から笑顔が消え、無表情の子になっていった。

「泣くともっと痛い目にあわされるから、どんなにつらくても我慢しました」

 そんな毎日の中で、学校だけが救いだった。担任の先生は吉田さんの境遇を理解し、高校進学の際も、校長とともに伯父に進学を頼んでくれた。

 高校卒業後は神奈川県内のデパートに就職して会社の寮に入り、伯母の家を出ることができた。23歳で結婚。男の子2人に恵まれた。

 生活が安定した50代半ば。あの空襲の時に3歳の自分をおぶって逃げてくれた「命の恩人」の叔母に会いたくなった。だが、ようやく捜し当てた時、叔母は2年半ほど前に事故で亡くなっていた。

みんなの代弁者として

 両親と妹を奪い、自分の人生まで変えてしまった戦争。そしてそれを始めた国に、憤りを抑えきれなくなった。

「私は、親戚からひどい目にあわされてきたけど、生きているから世の中のことを見ることができます。でも、亡くなっていった家族たちは、何もできない。絶対に悔いを残して死んだと思います。だからその人たちの代弁者になってやろうと決めました」

 全国空襲被害者連絡協議会(全国空襲連)に加わり、現在は共同代表を務める。

 先の戦争で、軍人や軍属らには恩給など総額60兆円以上が支払われてきた。だが、民間人の空襲被害者らには補償がない。吉田さんたちは国に補償を求め、法律をつくり解決すべきだと訴える。しかし、今国会でも法律は成立しなかった。それでも、吉田さんは国の責任を問い続けながら、集会や小中学校などで自らの体験を語り続けている。吉田さんは言う。

「100人の子どもたちがいたとして、その中の一人でも二人でもいい。私の話を思い出して、平和を語り継いでくれる子がいればうれしいです」

(AERA編集部・野村昌二)

AERA 2025年8月11日-8月18日合併号より抜粋

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