吉田由美子さん(84)の生後35日目の写真。左の二人が吉田さんの両親。右の女性は、母方の祖母。祖母に抱かれているのが吉田さん(撮影:江藤大作)
吉田由美子さん(84)の生後35日目の写真。左の二人が吉田さんの両親。右の女性は、母方の祖母。祖母に抱かれているのが吉田さん(撮影:江藤大作)
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 戦後80年。戦争の記憶は薄れつつある中、戦争の悲劇と平和への願いを訴え続ける女性たちがいる。東京大空襲で家族を失いながら過酷な幼少期を生き抜いた女性が、次世代に託す思いとは。AERA 2025年8月11日-8月18日合併号より。

【写真】「戦争は人災」と語る、全国空襲連・共同代表の吉田由美子さん

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 一枚の写真がある。

 背広姿の男性に着物姿の女性が2人、そして、おくるみに包まれた赤ちゃん。撮影日は、1941(昭和16)年8月3日。

「私の生後35日目のお宮参りです。写っているのは、私の両親と母方の祖母です。祖母に抱かれているのが私。両親の顔は写真でしか知りません」

 吉田由美子さん(84)は静かに話す。

 45(昭和20)年3月10日未明。一夜にして約10万人の命を奪ったとされる東京大空襲で、吉田さんは、両親と生後3カ月の妹を亡くした。

 当時、東京の本所業平橋(現・墨田区)に住んでいた。だが、戦況の悪化で父は疎開を決意。空襲前日の3月9日、吉田さんは荷造り作業の邪魔にならないようにと、近くの叔母の家に預けられた。だが、そのわずか数時間後、東京は火の海と化した。吉田さんは叔母に守られ逃げることができたが、両親と妹の命は奪われ、戦争孤児となった。3歳だった。

 吉田さんには空襲の記憶はほとんどない。その後は、親戚宅を転々とした。6歳になり小学校入学を控えたころ、新潟県の伯母(父親の姉)の家に引き取られた。そこから、「地獄の日々」が始まった。

お手伝いとして扱われ

 初対面の伯母にいきなり、「空襲でお前も親と一緒に死んでくれれば、お前を育てないですんだのに」と言われた。吉田さんは、両親の顔をはっきりと覚えていなかったが、「いつかきっと迎えに来てくれる」と信じ、つらい環境にも耐えていた。しかし、この言葉で家族の死を知った。

「もうショックで。悲しくて、よく泣きました」

 伯母の家では「お手伝い」として扱われた。

 井戸の水くみ、食事の準備と後かたづけ、掃除。少しでも手間取ると、伯母とその娘に容赦なく頭や顔を叩かれた。食事は仏壇の冷たいご飯に、おかずは前日の残り物だった。

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